人質

明帝即位、下詔書使郡縣條為劇・中・平者。主者欲言郡為中・平、(王)觀教曰「此郡濱近外虜、數有寇害、云何不為劇邪?」主者曰「若郡為外劇、恐於明府有任子。」觀曰「夫君者、所以為民也。今郡在外劇、則於役條當有降差。豈可為太守之私而負一郡之民乎?」遂言為外劇郡、後送任子詣鄴。時觀但有一子而又幼弱。其公心如此。
(『三国志』巻二十四、王観伝)

明帝が即位した後のこと。



太守や県令に対し、自分の郡・県が「劇・中・平」のどれにあたるかを自己申告するようにとの詔があったようだ。



つまり、郡や県が辺境や反乱頻発地か、統治しやすい土地かということで等級を付け、それによって扱いにも差を付けるものである*1




この時、涿郡太守王観の部下は涿郡を「中」か「平」にしようとした。




太守の王観が「ウチは辺境で異民族の攻撃も多いし、「劇」やろ?」と言うと、部下はこう言った。



「「劇」と認定されたら、おそらく任子(人質)を出さなければいけなくなりますよ」



つまり、太守が人質を出さなければならなくなるのを阻止しようと敢えて「劇」を避けたのだ、というのだ。




だが、王観はこう反論した。



「太守というのは民のために存在するのだ。「劇」となれば郡民は賦役では優遇されるはずだ。私の個人的なことのために郡民を裏切るような真似ができようか」




王観は自分の郡を「劇」と申告し、結果として「劇」郡となったために王観は病弱な後継ぎ息子を鄴へ人質に送らなければならなくなったという。






人質を取ること自体は、裏切りの横行したこの時代では当然のことだったのだろうが、太守のさじ加減で(民を犠牲にして)回避できることもあった、ということらしい。



あと、人質が都の洛陽ではなく鄴に送られたというのがちょっと気になる。

*1:こういう等級は前漢からあったようなので、格付けをやり直すという主旨なのだろう。