門限

(郅)綠遂客居江夏教授、郡舉孝廉、為上東城門候。
帝嘗出獵、車駕夜還、綠拒關不開。帝令從者見面於門輭。綠曰「火明遼遠。」遂不受詔。帝乃迴從東中門入。
明日、綠上書諫曰「昔文王不敢槃于游田、以萬人惟憂。而陛下遠獵山林、夜以繼晝、其如社稷宗廟何?暴虎馮河、未至之戒、誠小臣所竊憂也。」書奏、賜布百匹、貶東中門候為參封尉。
(『後漢書』列伝第十九、郅綠伝)

後漢初期の人、郅綠は堅物で郡太守の意を損ねていたがその後孝廉に挙げられて洛陽の上東城門候となった。



洛陽の城門の一つの管理責任者である。






ある日、光武帝が洛陽城外へ出て猟を楽しんだが、戻ったときには夜となっていて城門は閉じられていた。



責任者の郅綠は開けようとしない。



そこで光武帝は従者に命じて自分の顔を明かりで郅綠に見えるようにしてやった*1




もちろん、これで門を開けることを期待したのだろうが、郅綠は「暗くて見せません」と言って拒絶。



光武帝はやむなく遠回りして別の門から城内へ入ったのだという。





その翌日、郅綠は「皇帝陛下ともあろう者が夜まで狩猟に明け暮れるなんて危険なことをするなんてどうなんですかねえ・・・」と光武帝に上奏した。





光武帝は「お前見えてたんじゃねえか」と思ったかどうかはわからないが、光武帝はそこで郅綠に褒美を取らせ、昨夜自分を城内に入れた門の責任者を左遷した。



その門の責任者は、「夜になったら城内に誰も入れない」という門番の本分を全うしていなかった、ということだろう。



その門の責任者にとってはとんだとばっちりという感が否めないが、皇帝陛下のお達しなので仕方ない。





皇帝の我儘と本来の決まりとどちらを優先すべきか、という問題は案外深いテーマかもしれない。



光武帝が諫言を聞き入れる度量があったからいいが、そういうタイプでなかったら(あるいは虫の居所が悪かったら)左遷されるのは郅綠の方だったろう。

*1:光武帝は非公式に城外へ出ていたのだろうか?門限に遅れたとはいえ公式日程にあったのであれば、こういう展開にならないような気もする。