孫堅の官位

靈帝崩、(董)卓擅朝政、橫恣京城。諸州郡並興義兵、欲以討卓。(孫)堅亦舉兵。荊州刺史王叡素遇堅無禮、堅過殺之。比至南陽、衆數萬人。南陽太守張咨聞軍至、晏然自若。
【注】
英雄記曰、咨字子議、潁川人、亦知名。獻帝春秋曰、袁術表堅假中郎將。堅到南陽、移檄太守請軍糧。咨以問綱紀、綱紀曰「堅鄰郡二千石、不應調發。」咨遂不與。
(『三国志』巻四十六、孫堅伝)

董卓が朝廷で力を得て皇帝を挿げ替え、袁紹らがそれに反旗を翻すという時期、長沙太守孫堅は自分の郡を監察する荊州刺史王叡を殺し、今度は南陽太守張咨の元へ迫っていた。



この時期の話として、袁術孫堅に(仮)中郎将の地位に推薦した、という話がある。




だが、思うに中郎将は官秩としては比二千石、太守は二千石であり、しかも「仮」という事は正式な官位でもないようだ。



太守になっている人物に与えようとする官位としては低いのではなかろうか?




その話を信じた上で納得できる理由があるとしたら、「既に孫堅は官位を失った状態だった」という事ではなかろうか。




例えば、荊州刺史王叡を殺した時点で長沙太守の地位は剥奪されており、公式には無位無官の状態になっていた、という感じだろうか?