徙戎論その2

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20110527/1306422647の続き。

及至周室失統、諸侯專征、以大兼小、轉相殘滅、封疆不固、而利害異心。戎狄乘間、得入中國。或招誘安撫、以為己用。故申虵之禍、顛覆宗周。襄公要秦、遽興姜戎。
當春秋時、義渠・大荔居秦晉之域、陸渾・陰戎處伊洛之間、鄋瞞之屬害及濟東、侵入齊宋、陵虐邢衛、南夷與北狄交侵中國、不絶若綫。齊桓攘之、存亡繼絶、北伐山戎、以開燕路。故仲尼稱管仲之力、嘉左衽之功。

周王朝が諸侯を制御できなくなって春秋戦国の乱世になると、諸侯はお互いに争い、四夷との境界も不明瞭となり、利害も諸侯によって別々になっていきました。戎・狄はそこに乗じて中国に入っていったのです。招き入れて懐柔して利用しようとすることもありました。それゆえに周の幽王の時は申侯と虵国が犬戎と共に幽王と褒姒を攻める事件が起こり、晋の襄公は秦に強要してを要撃するため姜戎の兵を興したのです*1
春秋の時代は、義渠・大荔といった戎が秦と晋の間におり、陸渾・陰戎が伊水・洛水のあたりにおり、鄋瞞といった連中が済東、斉、宋、邢、衛などに害を及ぼしました。南夷と北狄とが交互に中国へ侵攻し、首の皮一枚で生きながらえているといった状態だったのです。斉の桓公がそれらを退け、滅んだ国を復興し、山戎を征伐して燕への道を開きました。それ故に孔丘先生は「管仲さんがいなかったら俺たちも左前だったよ」と称賛したのです。


「申虵之禍」とは幽王と褒姒で有名な件。
申侯は幽王の太子の母の親族、つまり外戚。褒姒によって太子が廃位の危機となったことで申侯が虵国と犬戎と共同で幽王を攻め殺し、太子を王に立てた。
狼煙不発事件がこの時のことである。

「襄公要秦、遽興姜戎」は恥ずかしながらよくわかっていない。晋の襄公が秦を破ったことに関係あるのではないかと思ったが、間違っているかもしれない。詳しい人の教示を待つ。

孔丘先生の発言は『論語』憲門篇の「微管仲。吾其被髮左衽矣」。

*1:fish40氏のコメントにより訂正。