(張)良至韓、韓王成以良從漢王故、項王不遣成之國、從與倶東。良説項王曰「漢王燒絶棧道、無還心矣。」乃以齊王田榮反書告項王。項王以此無西憂漢心、而發兵北撃齊。
項王竟不肯遣韓王、乃以為侯、又殺之彭城。良亡、輭行歸漢王、漢王亦已還定三秦矣。
(『史記』巻五十五、留侯世家)
項羽の十八諸侯封建後において、韓の地にはもともと項梁が立てた韓王成がいたが、項羽は彼を国に置かず自分に従わせたという。
大臣に当たる張良(事実上のキングメーカーでもある)が漢王劉邦とつながっているからであったという。
韓というのは秦から最も近かったので、劉邦とのつながりを危険視したのだろう。
だが結局王位剥奪した挙句に殺したことで、韓の人間と項羽の関係は険悪なものとなったのではなかろうか*1。
危険視するあまり、逆に劉邦に接近する方向へ追い込んでいたではないのか。
先日も記事にしたが、韓の地にはもうひとり趙の張耳と深い関係(意味深)の河南王申陽を立てている。
これも韓地の封じ込め、さらには漢王劉邦の封じ込めのための人事なのだろう。
だが、河南王申陽を寵愛する張耳が結局国を失って漢王の方に逃げ込んだことで、これも完全に裏目に出る。
張耳が漢へ逃げ込むと、ほどなくして河南王申陽も張耳の後を追うかのように漢王劉邦が関東へ攻めだす前から降伏しているのだ。
封じ込めどころか、劉邦の韓地フリーパスに一役買ったとさえ言えよう。
漢王劉邦が項羽と一進一退の攻防を繰り返し、時に拠点としていた滎陽は河南郡にある。
つまり韓の地である。
項羽の諸侯王人事とその後の処置が、この地を本来アウェーであるはずの劉邦にとっての前線基地化することに一役買った、ということも言えるのではなかろうか。