漢初諸侯王との違い

諸侯王、高帝初置、金璽盭綬、掌治其國。有太傅輔王、内史治國民、中尉掌武職、丞相統衆官、群卿大夫都官如漢朝。景帝中五年令諸侯王不得復治國、天子為置吏、改丞相曰相、省御史大夫・廷尉・少府・宗正・博士官、大夫・謁者・郎諸官長丞皆損其員。武帝改漢内史為京兆尹、中尉為執金吾、郎中令為光祿勳、故王國如故、損其郎中令、秩千石、改太僕曰僕、秩亦千石。成帝綏和元年省内史、更令相治民、如郡太守、中尉如郡都尉。
(『漢書』百官公郷表上)

魏國置丞相已下群卿百寮、皆如漢初諸侯王之制。
(『三国志武帝紀)

さて、魏公に封じられた曹操は、魏国内に丞相(相国)や卿(廷尉とか少府とか)を漢初の諸侯王と同じように置くことを許されている。

しかし、一点だけ、確実に魏国では施行されていない「漢初諸侯王之制」がある。それは何か。



分魏郡為東西部、置都尉。
(『三国志武帝紀)

曹操が魏公になって直後。魏の都である鄴がある魏郡に東部都尉、西部都尉を置いた。


ここに注目。
漢初の諸侯王の制度において、少なくとも首都近辺の郡を治めるのは「内史」であり、行政区域の名前も「内史」と呼ばれていた。
漢王朝でも同様である。

ということは、魏も首都圏の郡は「内史」と呼ぶことが出来るはず、いやそうすべきなのではないかと思うが、どうも魏郡は魏郡のままらしい。


細かい話であるし、実態はまた何か違っていた可能性だって否定できないが、魏は内史を置いていなかったのではないかと思われるのである。


ただし、魏だけでなく呉王孫権も漢中王劉備も置いていないのではないかと思われる。