漢初諸侯王の制と魏郡

魏國置丞相已下羣卿百寮、皆如漢初諸侯王之制。
(『三国志』巻一、武帝紀、建安十八年)

曹操の魏公(王)国は、「漢初諸侯王の制」により官を置いたとされる。



しかし実はそこと合わない部分もある。


諸侯王、高帝初置、金璽盭綬、掌治其國。有太傅輔王、内史治國民、中尉掌武職、丞相統衆官、羣卿大夫都官如漢朝。景帝中五年令諸侯王不得復治國、天子為置吏、改丞相曰相、省御史大夫・廷尉・少府・宗正・博士官、大夫・謁者・郎諸官長丞皆損其員。
(『漢書』巻十九上、百官公卿表上)

内史、周官、秦因之、掌治京師。
(『漢書』巻十九上、百官公卿表上)


魏国においては、相国(丞相)や御史大夫、中尉などは存在が確認できるが、「内史」がいなかったように思われる。



内史は首都圏の長官という感じらしい。魏国においては鄴近辺すなわち魏郡に相当するだろう。



冬十月、分魏郡為東西部、置都尉。
(『三国志』巻一、武帝紀、建安十八年)


魏国が生まれて以降も、魏国の首都圏は「魏郡」のままのようだ。


ということは、おそらくは魏国には「内史」はなく、首都圏も「魏郡」のまま統治されていたのだろう。



このあたりは、敢えて「漢初諸侯王の制」を外している。理由は分からないが、全面的に漢初諸侯王と同じにしているわけではないというのは興味深い。



劉備も漢中王国も同様に漢初諸侯王の制だったはずだが、内史がいたかどうかはよくわからない。