三国志はじめての官職:郡

三国志の時代の統治は、「州」「郡」「県」が基本形であったことは以前述べた。



「州」の監督を受ける「郡」はいくつかの「県」が集まって構成されるものであった。


毎郡置太守一人、二千石、丞一人。郡當邊戍者、丞為長史。王國之相亦如之。
毎屬國置都尉一人、比二千石、丞一人。
本注曰、凡郡國皆掌治民、進賢勸功、決訟檢姦。常以春行所主縣、勸民農桑、振救乏絶。秋冬遣無害吏案訊諸囚、平其罪法、論課殿最。歲盡遣吏上計。并舉孝廉、郡口二十萬舉一人。
(『続漢書』志第二十八、百官志五)

「郡」の長官を「太守」といい、県を統率・監督して民政・裁判等を主管、中央には「孝廉」という形式で人材を推薦する任を負っていた。



尉一人、典兵禁、備盜賊、景帝更名都尉。
武帝又置三輔都尉各一人、譏出入。
邊郡置農都尉、主屯田殖穀。
又置屬國都尉、主蠻夷降者。
中興建武六年、省諸郡都尉、并職太守、無都試之役。省關都尉、唯邊郡往往置都尉及屬國都尉、稍有分縣、治民比郡。安帝以羌犯法、三輔有陵園之守、乃復置右扶風都尉・京兆虎牙都尉。
(『続漢書』志第二十八、百官志五)

また、郡内の軍事・警察任務は元来は「都尉」が受け持っていたが、後漢になって廃止されて太守が受け持つことになった。



つまり、後漢以降の太守は原則として郡内の軍事・警察の仕事も掌握していた(都尉がいても軍事にノータッチというわけではなかったようだが)。



太守というのは、民政・軍事の両面におけるトップなのである。




軍事も統べているので、前漢後漢三国時代の太守はしばしばその郡から動員した兵士を率いて大将として郡を守ったりする。


そのため、太守のことを「郡将」*1と呼ぶこともある。



前漢における制度だが、辺境の太守は一万もの騎兵を率いるものであったようだ


一郡だけで袁紹曹操との闘いで動員した騎兵を超える軍事力である。




太守というのは、状況によっては一軍の将として強い力を持つ場合があったし、重要な働きをすることもある、ということだ。





なお、以前の記事で言及したように、諸侯王の「国」は多くの場合は郡と同程度の規模、同程度の格であった。



そのため諸侯王の国の実質的な統治者である「」も太守とほぼ同格であり、ともに「二千石」と総称されることがある。


この「二千石」という表現についての説明はまたいずれ。




全土を「郡」とした秦と違って「郡」と「国」が混在することから、漢以降の地方統治制度を「郡国制」と呼ぶこともある。





太守は州の刺史の監督を受けたとはいえ、逆に言えば監督を受けていない時はその郡のトップ、最高権力者ということである(三公を通じて届く皇帝からの詔勅を別にすれば)。


混乱期などにおいても、太守あるいは自称太守が事実上の独立勢力となることが散見されるし、独立勢力のトップが州牧であれば、太守は多くても十数人しかいないわけだから、太守にはかなりの大物が就任することになる。



太守については憶えておいて損はないだろう。

*1:「師古曰「新為郡將也、謂郡守為郡將者、以其兼領武事也。」(『漢書』巻九十、厳延年伝注)