ない内史

五月丙申、天子使御史大夫郗慮持節策命公為魏公曰・・・(中略)・・・魏國置丞相已下羣卿百寮、皆如漢初諸侯王之制。
(『三国志』巻一、武帝紀)

秋、羣下上先主為漢中王、表於漢帝曰・・・(中略)・・・以漢中・巴・蜀・廣漢・犍為為國、所署置依漢初諸侯王故典。
(『三国志』巻三十二、先主伝)

魏公(魏王)曹操・漢中王劉備とも、その国について「漢初諸侯王」の制度によるという事が書かれている(劉備の場合は実際にその通りになったか不明といえば不明だが)。



諸侯王、高帝初置、金璽盭綬、掌治其國。
有太傅輔王、内史治國民、中尉掌武職、丞相統衆官、羣卿大夫都官如漢朝。
景帝中五年令諸侯王不得復治國、天子為置吏、改丞相曰相、省御史大夫・廷尉・少府・宗正・博士官、大夫・謁者・郎諸官長丞皆損其員。
武帝改漢内史為京兆尹、中尉為執金吾、郎中令為光祿勳、故王國如故。損其郎中令、秩千石。改太僕曰僕、秩亦千石。
成帝綏和元年省内史、更令相治民、如郡太守、中尉如郡都尉。
(『漢書』巻十九上、百官公卿表上)

漢初の諸侯王の官には「太傅」「内史」「中尉」「丞相」などがいたとされているのだが、このうち「内史」については後漢末の魏国にも漢中王国にも出てこないのではなかろうか。



その上「魏郡」「蜀郡」と、もし漢初の制度通りなら「内史」(首都圏およびその長官)と扱われるべき地域が郡のままになっているように思われる。


冬十月、分魏郡為東西部、置都尉。
(『三国志』巻一、武帝紀)


少なくとも魏郡は魏公国成立直後にこう記録されているので、魏郡は郡のままで内史にはならなかった事が確認できる。






内史については何故か「漢初諸侯王」の制度は用いられなかったらしい。


理由はよく分からない。