三国志はじめての官職:王

三国志はじめての官職」は、今回は正確には「官職」とは言えないのだが、「王」について説明してみようと思う。



」という字を見ただけでもとてもエライ君主であるというイメージは皆持つだろう。



実際三国志で言えば曹操劉備孫権司馬昭がそれぞれ王になっていたので、なんかエライ、超スゴイというのはその点だけでも実感できるはずだ。



諸侯王、高帝初置、金璽盭綬、掌治其國。有太傅輔王、内史治國民、中尉掌武職、丞相統衆官、羣卿大夫都官如漢朝。
(『漢書』巻十九上、百官公卿表上)

皇子封王、其郡為國、毎置傅一人・相一人、皆二千石。
本注曰、傅主導王以善、禮如師、不臣也。相如太守。有長史、如郡丞。
(『続漢書』志第二十八、百官志五)

漢代の王は「諸侯王」とも呼ばれ、領地を「国」と呼んでいる。



その「国」は「」(丞相*1)などのその王の大臣たちによって統治されていた。




つまり、丞相以下の諸官によって統治される漢王朝の制度の小型版がその王国内にもあるということだ。



この王国は一応は「封建諸侯」として漢の皇帝から土地を与えられ、その領内では王が君主として君臨するという建前になっているのである。



ただし実際にはその国を統治する「相」などは漢の皇帝が選んで派遣している形になっており、皇帝の直轄領と大して変わらない形で統治されていたというのが実情であったと言われている。




後漢の王は上記の引用にあるように皇帝の皇子たちか、皇子から世襲で地位と領地を受け継いだ者がなるのが通例であった(三国時代の各国も基本的に同様)。つまり皆「劉氏」の人間であったのである。




王陵曰「高帝刑白馬盟曰『非劉氏而王、天下共撃之』。今王呂氏、非約也。」
(『史記』巻九、呂太后本紀)


それは、漢の高祖劉邦(高帝)が「今後劉氏以外で王となる者が現れたら、天下の者は全員でソイツを討ち果たせ」と盟約していたということに基づいており、その大原則は前漢初期の一部と前漢が滅び後漢が成立する頃の混乱期以外は、基本的には守られていた。



五月丙申、天子使御史大夫郗慮持節策命公為魏公曰・・・(中略)・・・魏國置丞相已下羣卿百寮、皆如漢初諸侯王之制
(『三国志』巻一、武帝紀)


それに対する最大最後の例外が言うまでも無く曹操であった。



曹操はおそらく上記の盟約に背かないようにと当初は王ではなく一段下の爵位として「公」になっているが、それでも内実は「漢初諸侯王之制」に基づく(これは、同時代の小さな王国ではなく、漢の初期の王の国が大きく臣下も数多く認められていた時代の制度を用いるという意味である)という点からわかるように、実質は王と同じだったのである。



そして、数年後には実際に王にまでなっている。



ぶっちゃけて言うと漢の高祖劉邦の盟約違反なのだ。



たぶん、この点は曹操とその周辺にとってそこそこデリケートな問題になっていたはずである。

*1:前漢の時に王の丞相は「相」と改称されている。