さかのぼり前漢情勢14

こっそりとhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100215/1266160354の続き。


漢の宣帝は、大臣を獄に下したり処刑することが少なくなかった。
武帝も多かったが、密度で言えば彼にも匹敵するかもしれない。

例えば、司馬遷の孫ということで有名な楊綠。

又綠兄子安平侯譚為典屬國、謂綠曰「西河太守建平杜侯前以罪過出、今徵為御史大夫。侯罪薄、又有功、且復用」綠曰「有功何益?縣官不足為盡力」綠素與蓋𥶡饒・韓延壽善、譚即曰「縣官實然、蓋司隸・韓馮翊皆盡力吏也、俱坐事誅」會有日食變、騶馬猥佐成上書告綠「驕奢不悔過、日食之咎、此人所致」章下廷尉案驗、得所予會宗書、宣帝見而惡之。廷尉當綠大逆無道、要斬。妻子徙酒泉郡。
(『漢書』楊綠伝)

彼は先に宣帝の友人だった戴長楽との争いで失脚していたが、逼塞中に舌禍事件を起こした。

「功績があったからといってなんだというのだ?今の皇帝は力を尽くすに足りない。皇帝は全くそのとおりだ。蓋𥶡饒や韓延寿は力を尽くしたというのに、二人とも処刑されてしまったではないか」

痛烈な宣帝批判である。皇帝への批判は大逆罪であり、もっとも厳しい処分が取られた。つまり処刑され、家族も配流されたのである。

また、楊綠が挙げた蓋𥶡饒。

是時上方用刑法、信任中尚書宦官、𥶡饒奏封事曰「方今聖道漸廢、儒術不行、以刑餘為周召、以法律為詩書」又引韓氏易傳言「五帝官天下、三王家天下、家以傳子、官以傳賢、若四時之運、功成者去、不得其人則不居其位」書奏、上以𥶡饒怨謗終不改、下其書中二千石。
(『漢書』蓋𥶡饒伝)

蓋𥶡饒はかなりの堅物で、監察官の司隷校尉となって多くの者に怖れられていたが、宣帝が中書宦官を任用していることを憂慮して上記のような密奏を行った。

「今や聖なる道は廃れ、罪人が宰相となり法律が聖典とされています」
つまり宦官が宰相のように扱われて本来の宰相がないがしろにされていることや、刑罰で臣下を統御していることを止めるよう諫言しているのだ。
「五帝は天下を官職として扱い、賢者に継承しました。三王(夏・殷・周)は天下を家として扱い、子孫に継承しました。天運というのは功績が成れば去っていくものであり、あるべき人がいなければその地位は空けておくものなのです」
上奏文全体ではないので計りかねるが、より太古の理想である五帝に倣って皇帝の地位を譲位するべきだ、と言っているように読める。

この件は大臣に処遇が委ねられ、大臣はこれを蓋𥶡饒が自分への禅譲を促したものだと判断し、蓋𥶡饒は大逆罪とされたため自殺した。
だが、どうも中書宦官批判の方が致命傷だったような気もする。


この二名については前述の元帝紀でも言及されており、処分が厳しすぎたのでは、という疑問があったのではないだろうか。
あるいは、元帝の進言は当時の大臣たちの声にならない思いを代弁したものだったと評価できるかもしれない。


他にも宣帝によって処刑または自殺に追い込まれた大臣としては京兆尹趙広漢、左馮翊韓延寿、河南太守厳延年といった者がいた。彼らは良吏であったが勢力争いなどに負けたのであるが、厳延年についても、宣帝誹謗という理由があったようである。

時黃霸在潁川以𥶡恕為治、郡中亦平、婁蒙豐年、鳳皇下、上賢焉、下詔稱揚其行、加金爵之賞。延年素輕霸為人、及比郡為守、褒賞反在己前、心內不服。河南界中又有蝗蟲、府丞義出行蝗、還見延年、延年曰「此蝗豈鳳皇食邪?」義又道司農中丞耿壽昌為常平倉、利百姓、延年曰「丞相御史不知為也、當避位去。壽昌安得權此?」
(『漢書』厳延年伝)

厳延年は宣帝が領内に鳳凰の飛来した太守黄覇を褒め称えたことを、自分の領内の蝗に引っ掛けて皮肉っている。「この蝗は鳳凰の餌か?」と。
また、宣帝肝煎りの「常平倉」も批判しており、これらが宣帝の心証を悪くしたのは想像に難くない。


他にも殺されなかった例でも、御史大夫蕭望之が常平倉に反対したことなどで罷免されたり、霍光と友好関係だった太僕杜延年が弾劾され罷免されたり、ということもあった。


また、実は宣帝初期の名相と言ってよい魏相も危ないところだったという。

又有使掾陳平等劾中尚書、疑以獨擅劫事而坐之、大不敬、長史以下皆坐死、或下蠶室。而魏丞相竟以丞相病死。
(『史記』張丞相列伝)

史記』の加筆部分によれば、丞相魏相は死ぬ間際に中書を弾劾したが、どうやら逆に反撃を食らったらしく、弾劾した属官は死刑や宮刑になった。
魏相自身も危険だったようだが、手が伸びる前に死去してしまったので不問となったのだろう。


宣帝の政策や側近である中書宦官に反対したり、誹謗したりした者は非業の最期を遂げる。
この恐怖政治が宣帝を明君たらしめたのである。

さしたる実力が無いが宣帝の元で御史大夫となり、地位を守った陳万年は、死期が近づいた時に息子に遺言と教誨を与えていた時に、息子陳咸にこう言われた。
「父上は要するに私にへつらいを教えようというのですね」
外戚への賄賂や上司へのゴマスリで出世した陳万年らしいエピソードであるが、宣帝の親政時代はそういう人物が三公になる時代であった。


そんな宣帝時代とちょっと似た時代を、既に見てきている気がする。
元帝の下で石顕たち宦官が権力を握っていた時代である。
石顕ら宦官は自分に逆らう者を法律に当てて殺し、へつらう者を優遇した。

考えてみれば石顕らの宦官は元帝が登用したのではなく、宣帝が側近にしていた宦官たちである。
つまり、石顕たちの手法は、実は宣帝のコピーなのだろう。