許史張金

諫大夫鄭昌愍傷𥶡饒忠直憂國、以言事不當意而為文吏所詆挫、上書頌𥶡饒曰「臣聞山有猛獸、藜藿為之不采。國有忠臣、姦邪為之不起。司隸校尉𥶡饒居不求安、食不求飽、進有憂國之心、退有死節之義、上無許・史之屬、下無金・張之託、職在司察、直道而行、多仇少與、上書陳國事、有司劾以大辟、臣幸得從大夫之後、官以諫為名、不敢不言」上不聽。遂下𥶡饒吏。
(『漢書』蓋𥶡饒伝)

諫大夫鄭昌さんによれば、司隸校尉蓋𥶡饒は「許・史氏との親族関係もなければ金・張氏のコネもないのに監察の職を真面目に励み、敵が多くて味方がいない」ということだ。


許・史とは宣帝の外戚
許氏は宣帝が民間にあった時に結婚した妻の実家で、宣帝は許氏には恩があったし、許氏も宣帝のお陰で出世できた。
史氏は宣帝の祖母の実家で、幼児にして投獄された宣帝が釈放された時に引き取って育てたのが史氏だった。
この両家は宣帝が皇帝になる前から関係があった外戚で、恩寵や政治的影響力もそれだけ大きかったと思われる。


張氏は張湯の子孫。
張湯の長男張賀は宣帝の成長を見守った忠臣。
張湯の末っ子張安世は霍光の同僚で大司馬車騎将軍にまで至った。霍光亡き後は事実上のトップであった。
宣帝は皇帝になる前からの恩ゆえに張氏とは極めて緊密な関係だった。


金氏は金日磾兄弟の子孫。つまり匈奴の王族の血を引く人たち。
武帝より昭帝を託された大臣の家で最後まで残った貴顕の家ではあるし、一族の金安上は宣帝に寵愛されていたのだが、他の三氏と比べると少々見劣りするような気がしないでもない。
とはいえ、金氏は権門の家と認識されていたのだろう。

少々意外な感じがする。