『漢書』高后紀を読んでみよう:その3

その2(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20170911/1505055866)の続き。




四年夏、少帝自知非皇后子、出怨言、皇太后幽之永巷。
詔曰「凡有天下治萬民者、蓋之如天、容之如地。上有驩心以使百姓、百姓欣然以事其上、驩欣交通而天下治。今皇帝疾久不已、乃失惑昏亂、不能繼嗣奉宗廟、守祭祀、不可屬天下。其議代之。」羣臣皆曰「皇太后為天下計、所以安宗廟社稷甚深。頓首奉詔。」
五月丙辰、立恆山王弘為皇帝。
(『漢書』巻三、高后紀)

皇帝、廃位されるの巻。



そして別の子である劉弘が新たな皇帝に立てられた。



四年、封呂嬃為臨光侯、呂他為俞侯、呂更始為贅其侯、呂忿為呂城侯、及諸侯丞相五人。
宣平侯女為孝惠皇后時、無子、詳為有身、取美人子名之、殺其母、立所名子為太子。孝惠崩、太子立為帝。
帝壯、或聞其母死、非真皇后子、迺出言曰「后安能殺吾母而名我?我未壯、壯即為變。」
太后聞而患之、恐其為亂、迺幽之永巷中、言帝病甚、左右莫得見。
太后曰「凡有天下治為萬民命者、蓋之如天、容之如地、上有歡心以安百姓、百姓欣然以事其上、歡欣交通而天下治。今皇帝病久不已、迺失惑惛亂、不能繼嗣奉宗廟祭祀、不可屬天下、其代之。」羣臣皆頓首言「皇太后為天下齊民計所以安宗廟社稷甚深、羣臣頓首奉詔。」帝廢位、太后幽殺之。
五月丙辰、立常山王義為帝、更名曰弘。不稱元年者、以太后制天下事也。
以軹侯朝為常山王。
置太尉官、絳侯勃為太尉。
(『史記』巻九、呂太后本紀)

皇帝廃位のくだりは『史記』の方が詳しい。



実母は殺されて皇后の子として育てられてきたという出生の秘密を知ってしまったために復讐宣言をしてしまったらしい。独り言か何かだったのかもしれないが、誰かに聞かれていたのだろう。





また、呂氏たちと合わせて「諸侯丞相五人」を列侯にしたというのも興味深い話である。



諸侯王の領地を実際に統治する「諸侯丞相」に恩を売っているとも取れるし、既に呂氏シンパだからこそ諸侯丞相に選ばれ、爵位も貰えたのだとも取れる。



いずれにしろ、諸侯王の国から呂氏への反抗者が出ないようにする措置の一環だったのだろうと思う。