さかのぼり前漢情勢13

誰も見ていないとしてもhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100214/1266138273の続き。


漢の宣帝の政治姿勢は、以下の二点に集約されるだろう。
一つは地方における「循吏」の重用。
もう一つは、恩賞や抜擢というアメと刑罰というムチによる臣下の統御。
宣帝は単純といえば単純な話だがこれを使いこなした。

自霍光薨後始躬萬機、窅精為治、五日一聽事、自丞相已下各奉職而進。及拜刺史守相、輒親見問、觀其所繇、退而考察所行以質其言、有名實不相應、必知其所以然。常稱曰「庶民所以安其田里而亡歎息愁恨之心者、政平訟理也。與我共此者、其唯良二千石乎!」以為太守、吏民之本也、數變易則下不安、民知其將久、不可欺罔、乃服從其教化。故二千石有治理效、輒以璽書勉窅、筯秩賜金、或爵至關內侯、公卿缺則選諸所表以次用之。是故漢世良吏、於是為盛、稱中興焉。
(『漢書』循吏伝)

宣帝は太守や刺史の任用に際しては自ら相手を見ていたという。
そして、公平な政治や裁判が行われることを最大の要点とみなし、そういった太守がいれば自ら勅書(璽書)をもって誉め、恩賞や爵位を与え、大臣に登用していった。
これを自らやったというのは漢のこれまでの皇帝には見られないことで、確かに太守のモチベーションが上がったであろうことは想像に難くない。

見宣帝所用多文法吏、以刑名繩下、大臣楊綠・蓋𥶡饒等坐刺譏辭語為罪而誅、嘗侍燕從容言「陛下持刑太深、宜用儒生」宣帝作色曰「漢家自有制度、本以霸王道雜之、奈何純任徳教、用周政乎!且俗儒不達時宜、好是古非今、使人眩於名實、不知所守、何足委任!」乃歎曰「亂我家者,太子也!」
(『漢書元帝紀)

元帝が父に意見したところ父から怒られた、という話である。
ここで、宣帝の統治について「以刑名繩下」「持刑太深」と表現されていることに注目すべきだろう。
宣帝は不適格な者、悪意を持った者、そして自分の意に沿わない大臣をガンガン処断し、法の網、刑罰の恐怖によって大臣たちを支配していたということである。

なお宣帝は皇帝になる以前、詩経論語、孝経を学者から学んだ儒者でもある。
民間にあって儒学を知っていたからこそ理想と現実の両方を知っていたのだろう。

地方における「循吏」は武帝頃の「酷吏」よりも儒家に近いと思われ、宣帝の法家的思想とは矛盾するようにも感じるが、元帝への叱責の中でも「どうして徳教だけに任せておけようか」と述べており、「徳教」の入る余地は否定していない。


全国の統治方針としてはこれまでよりも儒家に近づけ、一方大臣のコントロールは厳しい法家的手法を徹底する、という二面性が宣帝の特徴であった。
この二面性はそれ以降の時代の為政者もある程度引き継いでいるように思われる。

そして、地方統治の方針として「循吏」が推奨されたことで豪族の成長が進み、また豪族が儒者となっていく気運が高まったのだろう。
皇帝の臣下統御としても「徳教」を否定していないから、儒者が入り込む隙間を与えたと言えるかもしれない。
もっとも、儒者登用は武帝初期以来の歴史の長い方針なので、宣帝もその流れに乗っているだけかもしれないが。


では宣帝は実際にどんなふうに臣下を操ったか。それは次回へ続く。