『漢書』成帝紀を読んでみよう:その6

その5(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180330/1522335741)の続き。




四年春、罷中書宦官、初置尚書員五人。
夏四月、雨雪。
五月、中謁者丞陳臨殺司隸校尉轅豐於殿中。
秋、桃李實。
大水、河決東郡金隄。
冬十月、御史大夫尹忠以河決不憂職、自殺。
(『漢書』巻十、成帝紀

建始4年。



「中書宦官」を廃止して5人の「尚書」を置いた。

元帝晚節寢疾、定陶恭王愛幸、(石)顯擁祐太子頗有力。
元帝崩、成帝初即位、遷顯為長信中太僕、秩中二千石。顯失倚、離權數月、丞相御史條奏顯舊惡、及其黨牢梁・陳順皆免官。顯與妻子徙歸故郡、憂滿不食、道病死。諸所交結、以顯為官、皆廢罷。
(『漢書』巻九十三、石顕伝)

まずこの前段として、元帝の時代に政治を左右していたという中書宦官石顕が成帝が即位してすぐに排除されている。


中書宦官の廃止というのはその後にあった事と考えられ、同様の事態を生まないようにという配慮があったのだろう。


そして同時に尚書5人を置くというのは、それまで中書宦官がやっていたような仕事を宦官ではない官僚に分担を決めてやらせよう、という発想なのだろうと思う。




かくして、宣帝の時以来権力の中枢に位置していた宦官の勢力は政治の表舞台から姿を消した。



後三歳、河果決於館陶及東郡金隄、泛溢兗・豫、入平原・千乗・濟南、凡灌四郡三十二縣、水居地十五萬餘頃、深者三丈、壞敗官亭室廬且四萬所。御史大夫尹忠對方略疏闊、上切責之、忠自殺。
(『漢書』巻二十九、溝洫志)


黄河が氾濫し、それに対して御史大夫尹忠が述べた方策がよろしくなかったために成帝が怒って厳しく責め立て、尹忠は自殺したという。


なおこの数年前に清河都尉馮逡なる人物が黄河反乱の危険性を申し立てていたのに当時の丞相・御史大夫が予算不足などを理由に対策しなかったという話がある。成帝がそこまでおこだったのは、この経緯があったからかもしれない。