『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その1

『後漢書』孝霊帝紀の続きみたいなやつ。





孝獻皇帝諱協、靈帝中子也。
母王美人、為何皇后所害。
中平六年四月、少帝即位、封帝為勃海王、徙封陳留王。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

世の『三国志』ハァンならたいていは知っているであろう献帝。まずはその生い立ち。


光和三年、立為皇后。明年、追號后父真為車騎將軍・舞陽宣徳侯、因封后母興為舞陽君。
時王美人任娠、畏后、乃服藥欲除之、而胎安不動、又數夢負日而行。四年、生皇子協、后遂酖殺美人。帝大怒、欲廢后、諸宦官固請得止。董太后自養協、號曰董侯。
王美人、趙國人也。祖父苞、五官中郎將。美人豐姿色、聰敏有才明、能書會計、以良家子應法相選入掖庭。帝愍協早失母、又思美人、作追徳賦・令儀頌。
(『後漢書』紀第十下、皇后紀下、霊思何皇后)


何でも、実母の王美人はのちの献帝劉協を妊娠したが、霊帝の皇后になっていた何氏を恐れて子供を降ろそうとしたのだそうだ。


何皇后に殺されるのを恐れたという事だろうが、こういう事例はこの時期にも、他の時代にも、しばしばあったんじゃないかと思わせる。本人が身の危険を感じて、あるいは周囲が忖度して、または皇后や寵姫が強制して、そういう処置をする事で、皇帝は励んでもなかなか男子が生まれない、そんな状況もあったのだろう。


実例として、前漢成帝の時に趙皇后(趙飛燕)姉妹は他の側室たちが皇子を生み育てるのを妨げていた、という話がある。




霊帝の件に戻ると、この話の通りなら霊帝はこの事件によって何皇后に強い不信感を抱いたであろう事は想像に難くない。皇后の廃位と後継者の交代(厳密には何皇后の実子劉弁は皇太子になっていないので後継者と確定はしていないが)も念頭に置いたかもしれない。


そして董太后霊帝と王朝のため、そして自らの権勢のためと思い、皇子劉協を守り育てていったのだろう。漢王朝の秩序という面では後継者候補を増やすというのは危険な面が強いが。



こういった霊帝・董太后・何皇后・宦官それぞれの思惑が劉弁と劉協の二人の皇子の間を渦巻いたのだろう。




ただ、どの側にも皇子という武器、皇后・太后という地位があるという極めて不安定な局面のまま霊帝が死亡した事は、間違いなく朝廷の混乱を生むに違いなかった、と言えるだろう。



そしてこの混乱は、朝廷や皇統だけの問題では済まなくなってしまうのである。