『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その6

その5(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/05/08/000100)の続き。





冬十一月庚戌、鎮星・熒惑・太白合於尾。
是歳、有司奏、和・安・順・桓四帝無功徳、不宜稱宗、又恭懷・敬隠・恭愍三皇后並非正嫡、不合稱后、皆請除尊號。制曰「可。」
孫堅荊州刺史王叡、又殺南陽太守張咨。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

初平元年の残り。




和帝は穆宗、安帝は恭宗、順帝は敬宗、桓帝は威宗という廟号を贈られていたそうだが、それらが全て無しになった。



廟号は前漢の末期から濫発傾向があり、後漢でもそれが続いていたと言える。今回の措置はそれに待ったをかけたと言えるかもしれない。



ちなみに次の王朝では廟号どころか祖廟を三つ作った



恭懐皇后は和帝の母梁氏。敬隠皇后は安帝の祖母宋氏。恭愍皇后は順帝の母李氏。


いずれも実母などではあったが生前から皇后やそれに準じる地位にいたわけではなく、子や孫が皇帝になって以降に追尊された者たちである。



あの孫堅荊州刺史と南陽太守を殺す。

呉録曰、(王)叡先與堅共撃零・桂賊、以(孫)堅武官、言頗輕之。及叡舉兵欲討卓、素與武陵太守曹寅不相能、揚言當先殺寅。寅懼、詐作案行使者光祿大夫温毅檄、移堅、説叡罪過、令收行刑訖、以状上。堅即承檄勒兵襲叡。叡聞兵至、登樓望之、遣問欲何為、堅前部答曰「兵久戰勞苦、所得賞、不足以為衣服、詣使君更乞資直耳。」
(『三国志』巻四十六、孫堅伝注引『呉録』)


孫堅は反董卓サイドなので、この刺史・太守は董卓側だったのかと言うと、どうも違うっぽい。



少なくとも王叡は明らかに反董卓サイドであった。同士討ちである。



孫堅は感情のもつれや武陵太守との関係などから彼を殺すことになったという。


「ナメられたら殺す」というやつか。



董卓サイドで最初に殺された太守・刺史はもしかして王叡か?