論曰、漢世皇后無謚、皆因帝謚以為稱。雖呂氏專政、上官臨制、亦無殊號。中興、明帝始建光烈之稱、其後並以徳為配、至於賢愚優劣、混同一貫、故馬・竇二后倶稱徳焉。其餘唯帝之庶母及蕃王承統、以追尊之重、特為其號、如恭懷・孝崇之比是也。初平中、蔡邕始追正和熹之謚、其安思・順烈以下、皆依而加焉。
(『後漢書』紀第十下、皇后紀下)
前漢の皇后には諡号は無く、後漢明帝になって初めて皇后の諡号が生まれたという。
明帝の母である陰皇后に「光烈」、明帝の正妻である馬皇后に「明徳」といったようになっていた。
つまり皇帝の諡号の一文字に皇后自身の諡号を付ける、といったような形である。
先日の記事で言っていた「霊懐」もその法則である。彼女は生前皇后ではなかったが、皇帝となった実子が皇后として扱い、諡号を贈ったものである。
その「霊懐」の例に基づけば、劉備の甘夫人にも「劉備の諡号の一文字+皇后独自の諡号一文字」という号が与えられそうなものである。
今皇思夫人宜有尊號、以慰寒泉之思、輒與(頼)恭等案諡法、宜曰昭烈皇后。
(『三国志』巻三十四、二主妃子伝、先主甘皇后)
だが甘夫人は「昭烈皇后」という諡号を贈られた。劉備と同一である。
諡法を調べた上でこう決めた、とされているので、これが諡号であることは間違いない。
ということは、これまでの後漢の制度から少し外れて「皇帝と同じ諡号を贈る」ということにしたのだろうか。
(建興)八年秋、皇太后呉氏薨。諡曰穆。
(『華陽国志』巻七、劉後主志)
一方、呉皇后については、『三国志』でも『華陽国志』でも諡号が「穆」のみだったように記されている。
これはこれで後漢の皇后(皇太后)に対する諡号の法則からは外れている。
蜀漢の皇后に対する諡号は、例は少ないが後漢のそれとはズレがあるように見えるのである。