『晋書』宣帝紀を読んでみよう:その25

その24(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/07/17/000100)の続き。





六月、帝寢疾、夢賈逵・王淩為祟、甚惡之。
秋八月戊寅、崩於京師、時年七十三。天子素服臨弔、喪葬威儀依漢霍光故事、追贈相國・郡公。弟孚表陳先志、辭郡公及轀輬車。
九月庚申、葬于河陰、諡曰文、後改諡宣文。
先是、預作終制、於首陽山為土藏、不墳不樹、作顧命三篇、斂以時服、不設明器、後終者不得合葬。一如遺命。晉國初建、追尊曰宣王。武帝受禪、上尊號曰宣皇帝、陵曰高原、廟稱高祖。
(『晋書』巻一、宣帝紀

司馬懿、死亡。



賈逵と王淩が枕元に立って祟りを為したという。まあ、魏王朝を一歩消滅に近づけてるからね。



(霍)光薨、上及皇太后親臨光喪。太中大夫任宣與侍御史五人持節護喪事。中二千石治莫府冢上。賜金錢・繒絮、繡被百領、衣五十篋、璧珠璣玉衣、梓宮・便房・黄腸題湊各一具、樅木外臧椁十五具。東園温明、皆如乗輿制度。載光尸柩以轀輬車、黃屋左纛、發材官輕車北軍五校士軍陳至茂陵、以送其葬。諡曰宣成侯。發三河卒穿復土、起冢祠堂、置園邑三百家、長丞奉守如舊法。
(『漢書』巻六十八、霍光伝)


「霍光の故事」とは、前漢の大将軍霍光の死去後の各種恩典等の格式の事だろう。「轀輬車」は始皇帝が死ぬとき乗っていた車で、外から中が見えないボックスタイプの車のようだ。これを霊柩車とするのは辞退したという事だ。




司馬懿は『三国志』ではよく「司馬宣王」と称されている。これは司馬懿諡号だが、当初は「文侯」、それから「宣文侯」と諡号が変わっていった。

魏朝初諡宣帝為文侯、景王為武侯、文王表不宜與二祖同、於是改諡宣文・忠武。至文王受晉王之號、魏帝又追命宣文為宣王、忠武為景王。
(『晋書』巻二十、礼志中)


これは後に司馬昭が「魏の武帝・文帝の二祖と同じ諡号になるのは恐れ多い」という理由から改めたものであるとの事。


「文」から「宣文」と文字数が増えているが、諡号の世界では他に何も付かない「文」「武」の方が格上らしい。




生前から親族に対して行き過ぎを戒めていたという司馬懿らしいと言うべきか、墓については薄葬を命じていたという。


まあ、これは自分が所属していた勢力が墓荒らしをどうもよくやっていたらしいという事も影響していそうな気もする。