昭霊夫人

丞相(諸葛)亮上言「・・・(中略)・・・昔高皇帝追尊太上昭靈夫人為昭靈皇后、孝和皇帝改葬其母梁貴人、尊號曰恭懷皇后、孝愍皇帝亦改葬其母王夫人、尊號曰靈懷皇后。・・・(後略)・・・
(『三国志』巻三十四、二主妃子伝、先主甘皇后)

丞相臣(陳)平等請尊昭靈夫人曰昭靈后、武哀侯曰武哀王、宣夫人曰昭哀后。
(『漢書』巻三、高后紀、呂后七年)


諸葛亮は「高皇帝(高祖劉邦)は母の「昭霊夫人」を「昭霊皇后」とした」と言っている。



しかし『漢書』によると「昭霊夫人」を追尊したのは呂后である上、「昭霊皇后」とは言われておらず、「昭霊后」表記で統一されているようだ。



つまり諸葛亮の言う「昭霊夫人」の話はまるで正確ではない。それとも、後漢末以降は高祖によって「昭霊皇后」になっていたと普通に思われていたのだろうか?