『晋書』文帝紀を読んでみよう:その21

その20(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/09/07/000100)の続き。





三月己卯、進帝爵為王、增封并前二十郡。
夏五月癸未、天子追加舞陽宣文侯為晉宣王、舞陽忠武侯為晉景王。
秋七月、帝奏司空荀顗定禮儀、中護軍賈充正法律、尚書僕射裴秀議官制、太保鄭沖總而裁焉。始建五等爵。
冬十月丁亥、奏遣呉人相國參軍徐劭・散騎常侍水曹屬孫彧使呉、喻孫晧以平蜀之事、致馬錦等物、以示威懷。
丙午、天子命中撫軍新昌鄉侯炎為晉世子。
(『晋書』巻二、文帝紀

司馬昭、晋公から晋王へ。郡の数が倍増したとの事。



また「五等爵」の制度を定めた。「公・侯・伯・子・男」というヤツである。これまで大体「侯」だったのを分解したのだろう。



呉へ送られた使者は、『三国志』陳留王紀によれば降伏した呉の人間で、孫彧は孫権と同族であるそうだ。そういうところへ送られた降将二人の心労はいかばかりか。




そして司馬炎が後継者に指名される。なお、その少し前から彼が相国(司馬昭)の副とされていた。

初、文帝以景帝既宣帝之嫡、早世無後、以帝弟攸為嗣、特加愛異、自謂攝居相位、百年之後、大業宜歸攸。毎曰「此景王之天下也、吾何與焉。」將議立世子、屬意於攸。何曾等固爭曰「中撫軍聰明神武、有超世之才。髮委地、手過膝、此非人臣之相也。」由是遂定。
咸熙二年五月、立為晉王太子
(『晋書』巻三、武帝紀)


司馬炎司馬昭の嫡子であるが、司馬昭司馬炎の弟である司馬攸を司馬師の後継ぎとし、司馬氏全体の棟梁の座も司馬攸に与えようと考えたという。司馬懿の嫡子司馬師に男子がなかったから自分が代わりになっただけで、正統は司馬師の系統なのだ、ということらしい。


ただ反対が多く、司馬昭自身の嫡子司馬炎を相国と晋王の後継とする事になった。



この官位をも嫡子が継ぐ事を事実上容認する制度は魏武の時の発明である。