『三国志』明帝紀を読んでみよう:その13

その12(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/02/18/000100)の続き。





景初元年春正月壬辰、山茌縣言黄龍見。於是有司奏、以為魏得地統、宜以建丑之月為正。
三月、定暦改年為孟夏四月。服色尚黄、犧牲用白、戎事乗黑首白馬、建大赤之旂、朝會建大白之旗。改太和暦曰景初暦。其春夏秋冬孟仲季月雖與正歳不同、至於郊祀・迎氣・礿祠・蒸嘗・巡狩・蒐田・分至啟閉・班宣時令・中氣早晚・敬授民事、皆以正歳斗建為暦數之序。
五月己巳、行還洛陽宮。
己丑、大赦
六月戊申、京都地震
己亥、以尚書令陳矯為司徒、尚書右僕射衞臻為司空。
丁未、分魏興之魏陽・錫郡之安富・上庸為上庸郡。省錫郡、以錫縣屬魏興郡。
有司奏、武皇帝撥亂反正、為魏太祖、樂用武始之舞。文皇帝應天受命、為魏高祖、樂用咸熙之舞。帝制作興治、為魏烈祖、樂用章斌之舞。三祖之廟、萬世不毀。其餘四廟、親盡迭毀、如周后稷・文・武廟祧之制。
(『三国志』巻三、明帝紀

景初元年。



景初暦の採用。それまでの3月を4月という事にし、1カ月ショートカットするもの。つまり、ある年の正月は前の暦であれば前の年の12月という事である。




烈祖様、自分を「烈祖」とすべきという上奏を受ける。


反対したとは書かれていないので、普通に決裁されたのであろう。



「天子七廟」といい、皇帝廟が八つ目になったら一つは交代するのが習わし。ただ、「祖」の廟は交代されないでいつまでも残す、という事なのだそうだ。スペシャルなので特別扱いする、という事だ。


魏明帝景初元年、有司奏帝為烈祖、與太祖・高祖並為不毀之廟。從之。按宗廟之制、祖宗之號、皆身沒名成、乃正其禮。故雖功赫天壤、徳邁前王、未有豫定之典。此蓋言之不從、失之甚者也。後二年而宮車晏駕、於是統微政逸。
(『宋書』巻三十二、五行志二)

宋書』ではこのように評されている。先に廟号を決めるとかねーよ、バカじゃねーの、というところか。こんな事してるから2年後にはアレするし皇統もアレになるんやで、と中々の言われようである。



実際、なぜ先に決める事に異を唱えもしないのか、自らを「祖」と規定する事に違和感はなかったのか、周囲や下々の者はどう思ったのか、良く分からない。


しかも、まだ30代だというのに早々と決めてしまうというのも少し不思議な気がする。自分の代で統一を果たし「祖」にもふさわしい存在になる、みたいな意識だったのだろうか。それとも何か自分も新たな系統の開祖という意識があったのだろうか。これもよく分からない。



分からない尽くしで、ある意味ではとても興味を惹かれる話ではある。