命日と元日

於是有司奏以為魏得地統、宜以建丑之月為正。三月、定暦改年為孟夏四月。
(『三国志』巻三、明帝紀、景初元年)

魏の明帝曹叡様の時、暦の改定が行われた。



その結果、それまでの十二月を「正月」としてそこから一年が始まることにし、それ以降の月も一つずつずらしてゆくこととなった。



かくしてその年の三月をそれ以降四月とすることでひと月分暦を先送りし、それまでの十二月に正月が来るようになったのである。




詔曰「省奏事、五内斷絶、奈何奈何!烈祖明皇帝以正日棄天下、毎與皇太后念此日至、心有剝裂。不可以此日朝羣辟、受慶賀也。月二日會、又非故也。聽當還夏正月。雖違先帝通三統之義、斯亦子孫哀慘永懐。又夏正朔得天數者、其以建寅之月為歲首。」
(『宋書』巻十四、礼志一)

その明帝様は正月一日にお亡くなりになったのだが、それについて議論が起こり、「正月一日は正月を慶賀する儀を行うものだが、この日は先帝の命日なので悲しくて慶賀どころではないし、かといって翌日二日に慶賀の儀を行うという先例も無い。そうだ、正月といってももともとは十二月だったのだから、暦を戻して十二月に直してしまえば、正月一日は命日ではないので悲しくないではないか」という結論となった。



かくして明帝様の決めた暦は明帝様の命日を理由にして覆されたのであった。




ぶっちゃけた話、明帝様の暦はそれまでの暦と食い違うわけだから、民間で不具合が起こっていて評判がすこぶる悪かったのだろう(突然これからは10月は9月になりますとか言われたら我々だって大混乱を起こすだろう)。





「先帝の決めたことを覆すなんて本当はいけないけど、孝行のためには仕方ないよね」なんていう白々しくも思える言い訳をしてさっさと暦を戻してしまうあたり、明帝様の政治をできるだけ是正しなければいけない、という意識が当時の魏の朝廷内で働いていたと考えることもできるかもしれない。