『三国志』明帝紀を読んでみよう:その14

その13(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/02/19/000100)の続き。





秋七月丁卯、司徒陳矯薨。
孫權遣將朱然等二萬人圍江夏郡、荊州刺史胡質等撃之、然退走。初、權遣使浮海與高句驪通欲襲遼東。遣幽州刺史毌丘儉率諸軍及鮮卑・烏丸屯遼東南界、璽書徴公孫淵。淵發兵反、儉進軍討之、會連雨十日、遼水大漲、詔儉引軍還。右北平烏丸單于寇婁敦・遼西烏丸都督王護留等居遼東、率部衆隨儉内附。
己卯、詔遼東將吏士民為淵所脅略不得降者、一切赦之。
辛卯、太白晝見。
淵自儉還、遂自立為燕王、置百官、稱紹漢元年。
詔青・兗・幽・冀四州大作海船。
九月、冀・兗・徐・豫四州民遇水、遣侍御史循行沒溺死亡及失財産者、在所開倉振救之。
庚辰、皇后毛氏卒。
冬十月丁未、月犯熒惑。
癸丑、葬悼毛后于愍陵。
乙卯、營洛陽南委粟山為圜丘。
十二月壬子冬至、始祀。
丁巳、分襄陽臨沮・宜城・旍陽・邔四縣置襄陽南部都尉。
己未、有司奏文昭皇后立廟京都。
分襄陽郡之鄀・葉縣屬義陽郡。
(『三国志』巻三、明帝紀

景初元年後半。



孫権の江夏郡攻撃は失敗。


孫権高句麗を味方に付けて遼東の公孫淵を攻撃しようとしていたが、以前あったように高句麗は魏を選んだ。


孫権公孫淵をガチで攻めようとしていたようだ。



景初元年乃遣幽州刺史毌丘儉等齎璽書徴(公孫)淵。淵遂發兵、逆於遼隧、與儉等戰。儉等不利而還。淵遂自立為燕王、置百官有司。遣使者持節、假鮮卑單于璽、封拝邊民、誘呼鮮卑、侵擾北方。
(『三国志』巻八、公孫淵伝)


その公孫淵は幽州刺史毋丘倹の攻撃を撃退し、完全独立を決意。



燕王というのは孫権が贈った王位と同じなので呉に接近したのかもしれないが、その一方で「紹漢(漢を継ぐ)」という独自元号は魏も呉も否定する態度と言える。



帝之幸郭元后也、后愛寵日弛。景初元年、帝游後園、召才人以上曲宴極樂。元后曰「宜延皇后」、帝弗許、乃禁左右、使不得宣。后知之、明日、帝見后、后曰「昨日游宴北園、樂乎?」帝以左右泄之、所殺十餘人。賜后死、然猶加諡、葬愍陵。
(『三国志』巻五、明悼毛皇后伝)

毛皇后の死については、烈祖様が死を賜ったものだという。


一度は寵愛された妻妾が寵を失い、恨み言を言って皇帝に消される。


これは烈祖様の実母甄氏がたどった道である。



烈祖様は自分の実母を失った時と同じ事を自分の正妻に行ったという事だ。因果は巡る、とでも言うべきか。