『三国志』明帝紀を読んでみよう:その12

その11(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/02/17/000100)の続き。





四年春二月、太白復晝見、月犯太白、又犯軒轅一星、入太微而出。
夏四月、置崇文觀、徴善屬文者以充之。
五月乙卯、司徒董昭薨。丁巳、肅慎氏獻楛矢。
六月壬申、詔曰「有虞氏畫象而民弗犯、周人刑錯而不用。朕從百王之末、追望上世之風、邈乎何相去之遠?法令滋章、犯者彌多、刑罰愈衆、而姦不可止。往者按大辟之條、多所蠲除、思濟生民之命、此朕之至意也。而郡國斃獄、一歳之中尚過數百、豈朕訓導不醇、俾民輕罪、將苛法猶存、為之陷穽乎?有司其議獄緩死、務從寬簡、及乞恩者、或辭未出而獄以報斷、非所以究理盡情也。其令廷尉及天下獄官、諸有死罪具獄以定、非謀反及手殺人、亟語其親治、有乞恩者、使與奏當文書倶上、朕將思所以全之。其布告天下、使明朕意。」
秋七月、高句驪王宮斬送孫權使胡衛等首、詣幽州。
甲寅、太白犯軒轅大星。
冬十月己卯、行還洛陽宮。
甲申、有星孛于大辰。乙酉、又孛于東方。
十一月己亥、彗星見、犯宦者天紀星。
十二月癸巳、司空陳羣薨。
乙未、行幸許昌宮。
(『三国志』巻三、明帝紀

青竜4年。



烈祖様は刑を緩め人を活かす方向に舵を切る。つまりそれまではそうではなかったという事なのだろう。



伊夷模無子、淫灌奴部、生子名位宮。伊夷模死、立以為王、今句麗王宮是也。
其曾祖名宮、生能開目視、其國人惡之、及長大、果凶虐、數寇鈔、國見殘破。今王生墮地、亦能開目視人。句麗呼相似為位、似其祖、故名之為位宮。位宮有力勇、便鞍馬、善獵射。
(『三国志』巻三十、東夷伝高句麗


高句驪(高句麗)王宮と呼ばれる王は2人おり、後漢中期頃にいたのが宮、今回出てきているのは位宮(宮に似ている、という意味らしい)という名であったそうな。


この高句麗王位宮は孫権から使者を送られたがその首を魏に送り付けた。つまり孫権はそこまで使者を送っているのである。




三公の董昭と陳群が死去。世代交代が段々進行している。