有司奏、武皇帝撥亂反正、為魏太祖、樂用武始之舞。文皇帝應天受命、為魏高祖、樂用咸熙之舞。帝制作興治、為魏烈祖、樂用章斌之舞。三祖之廟、萬世不毀。其餘四廟、親盡迭毀、如周后稷・文・武廟祧之制。
(『三国志』巻三、明帝紀、景初元年)
みんな大好き魏の明帝曹叡様の時の事。
「武皇帝(曹操)は太祖、文皇帝(曹丕)は高祖、そして陛下は烈祖ってことにしましょうぜ!!」
という上奏を裁可した。
かくして、曹叡様は生きながらにして死後は魏の宗廟において永遠に廃止されない「烈祖」なる廟に入ることが決定したのである。
烈祖廟が魏の皇帝の宗廟における最後の廟になったのは皮肉と言うしかない。
だがまあそんなことはどうでもいい。
面白いのは、三祖以外の廟が4つ、つまり「天子七廟」だということ。
前漢末の「太祖+三昭三穆」で七廟という解釈はどこへ行ったのか。
後漢でどうだったのかまだよくわかってないので、これは今後の記事のネタになるだろう。