『三国志』明帝紀を読んでみよう:その4

その3(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/02/08/000100)の続き。





三年夏四月、元城王禮薨。
六月癸卯、繁陽王穆薨。
戊申、追尊高祖大長秋曰高皇帝、夫人呉氏曰高皇后。
秋七月、詔曰「禮、王后無嗣、擇建支子以繼大宗、則當纂正統而奉公義、何得復顧私親哉!漢宣繼昭帝後、加悼考以皇號。哀帝以外藩援立、而董宏等稱引亡秦、惑誤時朝、既尊恭皇、立廟京都、又寵藩妾、使比長信、敍昭穆於前殿、並四位於東宮、僭差無度、人神弗祐、而非罪師丹忠正之諫、用致丁・傅焚如之禍。自是之後、相踵行之。昔魯文逆祀、罪由夏父。宋國非度、譏在華元。其令公卿有司、深以前世行事為戒。後嗣萬一有由諸侯入奉大統、則當明為人後之義。敢為佞邪導諛時君、妄建非正之號以干正統、謂考為皇、稱妣為后、則股肱大臣、誅之無赦。其書之金策、藏之宗廟、著於令典。」
冬十月、改平望觀曰聽訟觀。帝常言「獄者,天下之性命也」、毎斷大獄、常幸觀臨聽之。
初、洛陽宗廟未成、神主在鄴廟。十一月、廟始成、使太常韓暨持節迎高皇帝・太皇帝・武帝・文帝神主于鄴、十二月己丑至、奉安神主于廟。
癸卯、大月氏王波調遣使奉獻、以調為親魏大月氏王。
(『三国志』巻三、明帝紀

太和3年。



烈祖様、「今後分家から皇帝になった者がいても、実の親を追尊するような事は禁止する」という命令を出す。



20代の若さで自分の死後の帝位の事を決めなくても、と思う一方、本来その心配がないうちにしておいた方が邪魔が入りにくいのではないか、とも思う。


自分の息子繁陽王穆が幼くして死んでいる事から弱気になって自分の次の代に早速そういう継承が起こるかもしれないと危惧した可能性もあるのかもしれない。



そういった継承が起きた時に朝廷を動揺させにくい措置であると思うが、その一方で分家から立てられた皇帝は本来なら最も頼れるはずの実家やその外戚を頼れない事になるので、たやすく傀儡化するという危険もあったように思う。




高祖大長秋というのは魏武の父曹嵩の養父である宦官曹騰の事。彼は曹丕とも烈祖様とも血縁が無い可能性があるが、公式には父祖であるので皇帝扱いした。



なお漢王朝では高祖も世祖も自分の父や祖父に皇帝の号を贈ってはいなかった*1。実際に皇帝になっていないし直接には覇業を始めた訳でもない父祖にも皇帝の号を贈るようになるのはこの王朝からではないだろうか。

*1:高祖の父に「太上皇」の号を贈ってはいるが。