三国志はじめての官職:皇帝その3

前回の記事の続きとして、「皇帝」の呼び名などについても説明しておく。




制曰「朕聞太古有號毋諡、中古有號、死而以行為諡。如此、則子議父、臣議君也、甚無謂、朕弗取焉。自今已來、除諡法。朕為始皇帝。後世以計數、二世三世至于萬世、傳之無窮。」
(『史記』巻六、秦始皇本紀)

秦の始皇帝は「これまで、『諡』を死後に子や臣下が贈っていたが、それはおかしい。だから廃止して数字で呼ぶで。初代のワイは始皇帝、二代目は二世皇帝って具合や。どや!」という命令を下した。




だが秦の皇帝は二代で終了し、新たに皇帝となった漢の高祖劉邦はこの制度は受け継がなかった。



そして、漢王朝始皇帝が否定した「」を皇帝死後に贈るという制度とし、これがその後二千年以上も続くことになるのである。




この制度自体は秦以前から王や侯といった君主たちにおいて通例となっていた制度で、その君主の死後に後継者とその大臣たちによってその先代にふさわしい数文字(当時は一、二文字)の諡号を贈り、その諡号に元々の爵位の称号をくっつけることで呼び名とするようになっていた。



「文」という諡号を贈られた王なら「文王」、「武」という諡号を贈られた侯なら「武侯」となるのである。




同様に、皇帝の場合も例えば「明」という諡号を贈られたら「明皇帝」(「明帝」と略すことも多い)なのである*1



後漢の最後の皇帝である「献帝」というのも、この諡号による呼び名であり、言い換えると死後の呼び名なのだ。






また、それと似て非なるものに「廟号」というものがある。



これは、死去した皇帝は「廟」で祀られるのだが、何代も続くと「廟」は後の時代の子孫のために明け渡すのが通例であった(初代だけはずっと残される)のだが、特別に優れた功績などがあった皇帝については特別扱いとし、初代以外でも「廟」をずっと残そう、と考えられるようになった。



初代は「太祖」という廟で、功績あった者は「太宗」や「世宗」などといった廟号で呼び、交代せずに残すようにしていた。



更に、いったん滅んだ王朝を復興した実質初代なども「世祖」などの廟号を贈られている。



有司奏、武皇帝撥亂反正、為魏太祖、樂用武始之舞。文皇帝應天受命、為魏高祖、樂用咸熙之舞。帝制作興治、為魏烈祖、樂用章斌之舞。三祖之廟、萬世不毀。其餘四廟、親盡迭毀、如周后稷・文・武廟祧之制。
(『三国志』巻三、明帝紀、景初元年)

三国志の時代で言うと、曹操は魏の「太祖」(曹操は魏の皇帝になってはいないが、後から皇帝の称号を贈られ、皇帝同様に扱われている)、曹丕は魏の「高祖」、曹叡様は魏の「烈祖」と呼ぶことにする・・・と曹叡様がじきじきに定めているのがこれである。



生きているうちから決めておくのかとか、初代や実質初代みたいな扱いの「祖」と付く廟を自称したのかとか、そういうところは曹叡様の心の闇に触れそうなので今回はスルーしよう。

*1:なお、漢代の皇帝は一部を除いて「孝」という字が正式な諡号の先頭に来ている。「漢の武帝」は本当は「孝武皇帝」なのである。