『三国志』武帝紀を読んでみよう:その36

その35(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/01/10/000100)の続き。





十八年春正月、進軍濡須口、攻破(孫)權江西營、獲權都督公孫陽、乃引軍還。
詔書并十四州復為九州。
夏四月、至鄴。
五月丙申、天子使御史大夫郗慮持節策命公為魏公曰
朕以不徳、少遭愍凶、越在西土、遷於唐・衛。當此之時、若綴旒然、宗廟乏祀、社稷無位。羣凶覬覦、分裂諸夏、率土之民、朕無獲焉、即我高祖之命將墜於地。朕用夙興假寐、震悼於厥心曰「惟祖惟父、股肱先正、其孰能恤朕躬」乃誘天衷、誕育丞相、保乂我皇家、弘濟於艱難、朕實頼之。今將授君典禮、其敬聽朕命。
昔者董卓初興國難、羣后釋位以謀王室、君則攝進、首啟戎行、此君之忠於本朝也。後及黄巾反易天常、侵我三州、延及平民、君又翦之以寧東夏、此又君之功也。韓暹・楊奉專用威命、君則致討、克黜其難、遂遷許都、造我京畿、設官兆祀、不失舊物、天地鬼神於是獲乂、此又君之功也。袁術僭逆、肆於淮南、懾憚君靈、用丕顯謀、蘄陽之役、橋蕤授首、稜威南邁、術以隕潰、此又君之功也。迴戈東征、呂布就戮、乗轅將返、張楊殂斃、眭固伏罪、張繡稽服、此又君之功也。袁紹逆亂天常、謀危社稷、憑恃其衆、稱兵内侮、當此之時、王師寡弱、天下寒心、莫有固志、君執大節、精貫白日、奮其武怒、運其神策、致屆官渡、大殲醜類、俾我國家拯于危墜、此又君之功也。濟師洪河、拓定四州、袁譚・高幹、咸梟其首、海盜奔迸、黑山順軌、此又君之功也。烏丸三種、崇亂二世、袁尚因之、逼據塞北、束馬縣車、一征而滅、此又君之功也。劉表背誕、不供貢職、王師首路、威風先逝、百城八郡、交臂屈膝、此又君之功也。馬超成宜、同惡相濟、濱據河・潼、求逞所欲、殄之渭南、獻馘萬計、遂定邊境、撫和戎狄、此又君之功也。鮮卑・丁零、重譯而至、箄于・白屋、請吏率職、此又君之功也。君有定天下之功、重之以明徳、班敍海内、宣美風俗、旁施勤教、恤慎刑獄、吏無苛政、民無懷慝。敦崇帝族、表繼絶世、舊徳前功、罔不咸秩。雖伊尹格于皇天、周公光于四海、方之蔑如也。
(『三国志』巻一、武帝紀)

九州制、施行。

十八年春正月庚寅、復禹貢九州。
【注】
獻帝春秋曰「時省幽・并州、以其郡國并於冀州。省司隸校尉及涼州、以其郡國并為雍州。省交州、并荊州益州。於是有兗・豫・青・徐・荊・楊・冀・益・雍也。」九數雖同、而禹貢無益州有梁州、然梁・益亦一地也。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)


この九州制は冀州が拡大する傾向があったが、きっと偶然だろう。幽州はともかく、并州についてはそもそもどこまで実効支配できていたか怪しい所があるし。




そして、邪魔者はすべて消えた、と言わんばかりに魏武が魏公になる。




まず魏武のお陰で漢の宗廟・社稷は守られたのだと魏武の功績を強調。



更に、魏武は董卓による国難に非を唱えた忠義の士だと称え、黄巾、韓暹、楊奉袁術呂布張楊、眭固、張繍袁紹袁譚、高幹、黒山、烏丸、袁尚劉表馬超成宜らを倒したり従えたりした功績を列挙。


漢王朝には割と従順だったような印象のヤツが入ってたり、ビッグネームが2人ほど入ってなかったりもするが、まあその辺はご愛敬。




とにかく、こんな多大な功績のある者は他にいない、通り一遍の恩賞では足りない、という事を言いたいわけだ。


それは確かにそうであろう。



この策命は次回に続く。