『漢書』成帝紀を読んでみよう:その20

その19(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180416/1523804527)の続き。




元延元年春正月己亥朔、日有蝕之。
三月、行幸雍、祠五畤。
夏四月丁酉、無雲有雷、聲光耀耀、四面下至地、昏止。赦天下。
秋七月、有星孛于東井。詔曰「乃者日蝕星隕、謫見于天、大異重仍。在位默然、罕有忠言。今孛星見于東井、朕甚懼焉。公卿大夫博士議郎其各悉心、惟思變意、明以經對、無有所諱。與内郡國舉方正能直言極諫者各一人、北邊二十二郡舉勇猛知兵法者各一人。」
封蕭相國後喜為酇侯。
冬十二月辛亥、大司馬大將軍王商薨。
是歳、昭儀趙氏害後宮皇子。
(『漢書』巻十、成帝紀


元延元年。



大司馬大将軍王商、死す。


(王)商輔政四歳、病乞骸骨、天子憫之、更以為大將軍、益封二千戸、賜錢百萬。商薨、弔贈如大將軍故事、諡曰景成侯、子況嗣侯。
(『漢書』巻九十八、元后伝)

王商は大司馬衛将軍だったが、死ぬ直前に大司馬大将軍に格上げされたらしい。『漢書』百官公卿表下によれば、前年にいったんは辞職を願い出たがこの年になって復帰、そして大将軍に格上げされ、そしてすぐに死去したという順番で書かれている。


おそらく、もう長くないという状況だからこそ格上げしてやったという事なのだろう。




哀帝既立、尊趙皇后為皇太后、封太后弟侍中駙馬都尉欽為新成侯。趙氏侯者凡二人。
後數月、司隸解光奏言、臣聞許美人及故中宮史曹宮皆御幸孝成皇帝、産子、子隠不見。
臣遣從事掾業・史望驗問知状者掖庭獄丞籍武、故中黄門王舜・呉恭・靳嚴、官婢曹曉・道房・張棄、故趙昭儀御者于客子・王偏・臧兼等、皆曰宮即曉子女、前屬中宮、為學事史、通詩、授皇后。房與宮對食、元延元年中宮語房曰「陛下幸宮。」後數月、曉入殿中、見宮腹大、問宮。宮曰「御幸有身。」其十月中、宮乳掖庭牛官令舍、有婢六人。・・・(後略)・・・
(『漢書』巻九十七下、外戚伝下、孝成趙皇后)


趙氏による皇子殺害事件がこの年から起こっていた、という。


趙昭儀というのは趙皇后(趙飛燕)の妹で、姉と共に成帝に寵愛されていたという。ただこの趙姉妹には後継ぎとなる皇子が産まれていなかった。そこで成帝が「お手付き」にした後宮の女性が産んだ皇子を密かに殺して自分の地位を守ろうとした、という事のようである。



趙昭儀は自分で自分のためにやったのか、姉(皇后)のためにやったのか、姉の指令があったのか、はたまたこういった事件の存在自体が怪しいものなのか(事件発覚は次の皇帝になってからである)はわからないが、皇帝の皇子であれば常に誰からも大事にされ、命を狙われたりしないという事ではなく、むしろ皇子はこういった危険と隣り合わせだったという事なのだろう。