『三国志』明帝紀を読んでみよう:その11

その10(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/02/16/000100)の続き。





三年春正月戊子、以大將軍司馬宣王為太尉。
己亥、復置朔方郡。
京都大疫。
丁巳、皇太后崩。
乙亥、隕石于壽光縣。
三月庚寅、葬文徳郭后、營陵于首陽陵澗西、如終制。
是時、大治洛陽宮、起昭陽・太極殿、築總章觀。百姓失農時、直臣楊阜・高堂隆等各數切諫、雖不能聽、常優容之。
秋七月、洛陽崇華殿災。
八月庚午、立皇子芳為齊王、詢為秦王。
丁巳、行還洛陽宮。命有司復崇華、改名九龍殿。
冬十月己酉、中山王兗薨。
壬申、太白晝見。
十一月丁酉、行幸許昌宮。
(『三国志』巻三、明帝紀

青竜3年。



太后すなわち曹丕の皇后郭氏が死ぬ。首陽陵というのは曹丕の皇帝陵、サウザーにとっての聖帝十字陵と同じである。




少なくとも上記の記事による限り、烈祖様はこの時期は宮殿造営に精を出していたとされる。極諫されてもお優しい事に発言を許してやっていた、という。極諫されるような事をしなければいいのにとか言ってはいけない





曹芳、登場。

齊王諱芳、字蘭卿。明帝無子、養王及秦王詢。宮省事祕、莫有知其所由來者。
(『三国志』巻四、斉王芳紀)


曹芳と曹詢は養子であったと明記されている。どこから来たのか分かる者はいない、という怪しさ全開の事も書いている。


烈祖様はまだ十分若いと思うが、自分の血を分けた実子を諦めたのか、あるいは諦めてはいないが万一に備えたのか。


最初から皇太子に立てているわけではないので、あくまでも「いつまでも実子がおらぬまま死ぬという万が一の事態に備えて」という所か。ある意味では全て見通していたかのようなな用意の良さである。