『三国志』斉王芳紀を読んでみよう:その6

その5(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/02/28/000100)の続き。





七年春二月、幽州刺史毌丘儉討高句驪、夏五月、討濊貊、皆破之。韓那奚等數十國各率種落降。
秋八月戊申、詔曰「屬到巿觀見所斥賣官奴婢、年皆七十、或癃疾殘病、所謂天民之窮者也。且官以其力竭而復鬻之、進退無謂、其悉遣為良民。若有不能自存者、郡縣振給之。」
己酉、詔曰「吾乃當以十九日親祠、而昨出已見治道、得雨當復更治、徒棄功夫。毎念百姓力少役多、夙夜存心。道路但當期于通利、聞乃撾捶老小、務崇脩飾、疲困流離、以至哀歎、吾豈安乗此而行、致馨德于宗廟邪?自今已後、明申勑之。」
冬十二月、講禮記通、使太常以太牢祀孔子於辟雍、以顔淵配。
(『三国志』巻四、斉王芳紀)

正始7年。


景初二年、太尉司馬宣王率衆討公孫淵、宮遣主簿大加將數千人助軍。正始三年、宮寇西安平、其五年、為幽州刺史毌丘儉所破。語在儉傳。
(『三国志』巻三十、東夷伝高句麗

正始中、(毋丘)儉以高句驪數侵叛、督諸軍歩騎萬人出玄菟、從諸道討之。句驪王宮將歩騎二萬人進軍沸流水上、大戰梁口、宮連破走。儉遂束馬縣車、以登丸都、屠句驪所都、斬獲首虜以千數。
句驪沛者名得來數諫宮、宮不從其言。得來歎曰「立見此地將生蓬蒿。」遂不食而死、舉國賢之。儉令諸軍不壞其墓、不伐其樹、得其妻子、皆放遣之。
宮單將妻子逃竄。儉引軍還。
六年、復征之、宮遂奔買溝。儉遣玄菟太守王頎追之、過沃沮千有餘里、至肅慎氏南界、刻石紀功、刊丸都之山、銘不耐之城。諸所誅納八千餘口、論功受賞、侯者百餘人。穿山溉灌、民頼其利。
(『三国志』巻二十八、毋丘倹伝)

幽州刺史毋丘倹は高句麗を討ち、その王である宮(位宮)を破った。実際には正始3年の高句麗による侵入があり、討伐は同5年から始まっていたようだ。




8月の詔は、いわば奴隷解放か?70歳以上、あるいは病気持ちの奴婢を良民とし、自活できなければ生活保護も支給する、というところか。