『晋書』景帝紀を読んでみよう:その10

その9(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/08/04/000100)の続き。





帝屯汝陽、遣兗州刺史鄧艾督太山諸軍進屯樂嘉、示弱以誘之。(文)欽進軍將攻艾、帝潛軍銜枚、徑造樂嘉、與欽相遇。欽子鴦、年十八、勇冠三軍、謂欽曰「及其未定、請登城鼓譟、撃之可破也。」既謀而行、三譟而欽不能應、鴦退、相與引而東。帝謂諸將曰「欽走矣。」命發鋭軍以追之。諸將皆曰「欽舊將、鴦少而鋭、引軍内入、未有失利、必不走也。」帝曰「一鼓作氣、再而衰、三而竭。鴦三鼓、欽不應、其勢已屈、不走何待?」欽將遁、鴦曰「不先折其勢、不得去也。」乃與驍騎十餘摧鋒陷陣、所向皆披靡、遂引去。帝遣左長史司馬璉督驍騎八千翼而追之、使將軍樂綝等督步兵繼其後。比至沙陽、頻陷欽陣、弩矢雨下、欽蒙楯而馳。大破其軍、衆皆投戈而降、欽父子與麾下走保項。
(毋丘)儉聞欽敗、棄衆宵遁淮南。安風津都尉追儉、斬之、傳首京都。
欽遂奔呉、淮南平。
(『晋書』巻二、景帝紀

決着。司馬師は自ら兵を率い、兗州刺史鄧艾を囮に使って文欽を攻めた。


文欽は敗れて呉へ逃げ、毋丘倹も勝ち目が無くなったと見て逃げ出したが捕らえられた。


世語曰、(毋丘)甸字子邦、有名京邑。齊王之廢也、甸謂儉曰「大人居方獄重任、國傾覆而晏然自守、將受四海之責。」儉然之。大將軍惡其為人也。及儉起兵、問屈𩑺所在、云不來無能為也。儉初起兵、遣子宗四人入呉。太康中、呉平、宗兄弟皆還中國。宗字子仁、有儉風、至零陵太守。宗子奧、巴東監軍・益州刺史。
(『三国志』巻二十八、毋丘倹伝注引『世語』)


なお毋丘倹の反乱は、息子毋丘甸が勧めたものという事になるようだ。


毋丘倹の孫に当たる毋丘奥は、後に晋の巴東監軍としてちょくちょく名前が出てくるようになる。


(文)欽亡入呉、呉以欽為都護・假節・鎮北大將軍・幽州牧・譙侯。
(『三国志』巻二十八、毋丘倹伝)


そして文欽は呉で随分高い地位に就けられるが、これは降将を厚遇して更なる降伏を誘う手段だろう。また、魏を攻める際には文欽を道案内や工作に使うという事でもあるはずだ。



但し、文欽は魏でも呉でも傲慢な態度が嫌われており(特に諸葛誕と不仲)、呉では孫峻だけが味方だった模様。