『晋書』文帝紀を読んでみよう:その4

その3(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/08/14/000100)の続き。





毋丘儉・文欽之亂、大軍東征、帝兼中領軍、留鎮洛陽。
及景帝疾篤、帝自京都省疾、拜衛將軍。
景帝崩、天子命帝鎮許昌尚書傅嘏帥六軍還京師。帝用嘏及鍾會策、自帥軍而還。
至洛陽、進位大將軍、加侍中、都督中外諸軍・録尚書事、輔政、劍履上殿。帝固辭不受。
甘露元年春正月、加大都督、奏事不名。
夏六月、進封高都公、地方七百里、加之九錫、假斧鉞、進號大都督、劍履上殿。又固辭不受。秋八月庚申、加假黄鉞、增封三縣。
(『晋書』巻二、文帝紀


毋丘倹の反乱。


司馬師の時に書いたが、毋丘倹は司馬師から司馬昭らに交代させろと言っていた。



これは、前回の話にあったように、対呉敗戦の責任で司馬昭だけが割を食ったと見えた事で、司馬師司馬昭の離間を狙ったものだったのかもしれない。


毌丘儉作亂、大將軍司馬景王東征、(鍾)會從、典知密事、衛將軍司馬文王為大軍後繼。景王薨於許昌、文王總統六軍、會謀謨帷幄。時中詔敕尚書傅嘏、以東南新定、權留衛將軍屯許昌為内外之援、令嘏率諸軍還。會與嘏謀、使嘏表上、輒與衛將軍倶發、還到雒水南屯住。於是朝廷拝文王為大將軍輔政、會遷黄門侍郎、封東武亭侯、邑三百戸。
(『三国志』巻二十八、鍾会伝)

司馬師が死んだ時、皇帝(高貴郷公)は司馬昭を留め、尚書傅嘏に司馬師の率いた軍を回収させようとしたが、傅嘏と鍾会司馬昭に軍を率いさせるようにした。


つまり、このままでは司馬師から司馬昭へと軍権がそのまま引き渡されそうになっていたので、司馬昭と軍を分離してしまおうとしたのだろう。



傅嘏や鍾会はそれに気付き、皇帝の命令に意見し修正する形で司馬氏の軍権を維持したのだ。



高貴郷公にとっては傀儡から脱する最大にして唯一のチャンスだったが、尚書という皇帝の側近によって阻止された。


まあ、献帝尚書令によって掣肘され続けてきたようなものだったと思われるので、同じようなものだ。因果は巡る。



こうなってしまえば、既に軍事面での功績もあり、毋丘倹でさえ認めていたとも言える司馬昭司馬師をそのまま継ぎ、更にそれ以上の存在になるのは自然な成り行きと言えるだろう。