『晋書』景帝紀を読んでみよう:その8

その7(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/07/30/000100)の続き。





二年春正月、有彗星見於呉楚之分、西北竟天。
鎮東大將軍毋丘儉・揚州刺史文欽舉兵作亂、矯太后令移檄郡國、為壇盟于西門之外、各遣子四人質于呉以請救。
二月、儉・欽帥衆六萬、渡淮而西。
帝會公卿謀征討計、朝議多謂可遣諸將撃之、王肅及尚書傅嘏・中書侍郎鍾會勸帝自行。戊午、帝統中軍歩騎十餘萬以征之。倍道兼行、召三方兵、大會于陳許之郊。
(『晋書』巻二、景帝紀

毋丘倹、背く。


初、(毋丘)儉與夏侯玄・李豐等厚善。揚州刺史前將軍文欽、曹爽之邑人也、驍果麤猛、數有戰功、好增虜獲以徼寵賞、多不見許、怨恨日甚。
儉以計厚待欽、情好歡洽。欽亦感戴、投心無貳。
正元二年正月、有彗星數十丈西北竟天、起于呉楚之分。儉・欽喜以為己祥。遂矯太后詔、罪狀大將軍司馬景王、移諸郡國、舉兵反。迫脅淮南將守諸別屯者、及吏民大小、皆入壽春城、為壇於城西、歃血稱兵為盟、分老弱守城、儉・欽自將五六萬衆渡淮、西至項。儉堅守、欽在外為游兵。
(『三国志』巻二十八、毋丘倹伝)


毋丘倹と文欽は曹爽・夏侯玄・李豊と懇意であったために自分の立場を危ぶんだという事らしい。


文欽の戦果捏造疑惑が挟まれるが、これは文欽が悪いだけなのか、当時の習わしとしてはよくあった事だったのか、ここだけではどちらとも判断は難しい。




自ら征伐へ行く事を決意した司馬師は戦場へ急行。態勢固めや呉との連携を恐れたか。



また、
https://t-s.hatenablog.com/entry/20150106/1420474654で記事にしたことがあるが、毋丘倹らは司馬師更迭と他の司馬氏への交代を提唱したとされており、司馬師は内部でも混乱が生じる恐れを感じていたのではなかろうか。自ら軍を率いていた方が不測の事態への対応がしやすい、という計算をしていたのかもしれない。


また、朝廷の最高権力者を事実上世襲で受け継いだ身なので、一度は実力を知らしめておく必要があった、という事ではなかろうか。