『晋書』景帝紀を読んでみよう:その11

その10(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/08/05/000100)の続き。





初、帝目有瘤疾、使醫割之。(文)鴦之來攻也、驚而目出、懼六軍之恐、蒙之以被、痛甚、齧被敗而左右莫知焉。
閏月疾篤、使文帝總統諸軍。辛亥、崩于許昌、時年四十八。
二月、帝之喪至自許昌、天子素服臨弔。詔曰「公有濟世寧國之勳、克定禍亂之功、重之以死王事、宜加殊禮。其令公卿議制。」有司議以為忠安社稷、功濟宇内、宜依霍光故事、追加大司馬之號以冠大將軍、增邑五萬戸、諡曰武公。
文帝表讓曰「臣亡父不敢受丞相相國九命之禮、亡兄不敢受相國之位、誠以太祖常所階歴也。今諡與二祖同、必所祗懼。昔蕭何・張良・霍光咸有匡佐之功、何諡文終、良諡文成、光諡宣成。必以文武為諡、請依何等就加。」詔許之、諡曰忠武。
晉國既建、追尊曰景王。
武帝受禪、上尊號曰景皇帝、陵曰峻平、廟稱世宗。
(『晋書』巻二、景帝紀


司馬師は、戦闘中に手術していた目が眼窩から飛び出すという事態に陥りながら、それを隠し続けて戦争を続行した。


痛み止めとかがあるような時代とも思えないので、相当な苦しみだったのだろうが、戦に勝つまでは耐え続けたという事になる。戦後、軍は弟の司馬昭に任せるのだった。


魏末傳曰、殿中人姓尹、字大目、小為曹氏家奴、常侍在帝側、大將軍將倶行。大目知大將軍一目已突出、啟云「文欽本是明公腹心、但為人所誤耳、又天子郷里。大目昔為文欽所信、乞得追解語之、令還與公復好。」大將軍聽遣大目單身往、乗大馬、被鎧甲、追文欽、遙相與語。大目心實欲曹氏安、謬言「君侯何苦若不可復忍數日中也!」欲使欽解其旨。欽殊不悟、乃更厲聲罵大目「汝先帝家人、不念報恩、而反與司馬師作逆。不顧上天、天不祐汝!」乃張弓傅矢欲射大目、大目涕泣曰「世事敗矣、善自努力也。」
(『三国志』巻二十八、毋丘倹伝注引『魏末伝』)


尹大目というこの状況下では冗談かと思うような名の人物が、その事を文欽にそれとなく伝えようとした。あとちょっと待てば司馬師はアレしますよ、というわけだ。


だが文欽は気付かなかったという。




そして司馬師、死す。



司馬昭の「父も兄も相国の位を辞退しました。(魏の)太祖が通った道であったからです」というのは、謙虚なようでいて、よくよく考えてみると「魏は太祖が丞相になって最終的に漢から帝位を奪いましたね。でも私たちはそういう事はしませんよ」と皮肉っているようにも取れるのではないか。


そして司馬懿の時にも触れたと思うが、諡号を「忠武」にチェンジ。


「景王」「世宗景帝」というのは、司馬氏が晋王・晋皇帝になってからの追尊である。




というわけで、司馬師は以上。