『晋書』宣帝紀を読んでみよう:その10

その9(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/07/02/000100)の続き。






青龍元年、穿成國渠、築臨晉陂、溉田數千頃、國以充實焉。
二年、(諸葛)亮又率衆十餘萬出斜谷、壘于郿之渭水南原。
天子憂之、遣征蜀護軍秦朗督歩騎二萬、受帝節度。諸將欲住渭北以待之、帝曰「百姓積聚皆在渭南、此必爭之地也。」遂引軍而濟、背水為壘。因謂諸將曰「亮若勇者、當出武功、依山而東。若西上五丈原、則諸軍無事矣。」亮果上原、將北渡渭、帝遣將軍周當屯陽遂以餌之。數日、亮不動。帝曰「亮欲爭原而不向陽遂、此意可知也。」遣將軍胡遵・雍州剌史郭淮共備陽遂、與亮會于積石。臨原而戰、亮不得進、還於五丈原。會有長星墜亮之壘、帝知其必敗、遣奇兵掎亮之後、斬五百餘級,獲生口千餘、降者六百餘人。
(『晋書』巻一、宣帝紀

司馬懿諸葛亮五丈原にて対峙。



ちなみにこの時期、魏の皇帝である烈祖様ご一行は呉と戦っていた。



是月、諸葛亮出斜谷、屯渭南、司馬宣王率諸軍拒之。詔宣王「但堅壁拒守以挫其鋒、彼進不得志、退無與戰、久停則糧盡、虜略無所獲、則必走矣。走而追之、以逸待勞、全勝之道也。」
(『三国志』巻三、明帝紀


なお、この時に烈祖は司馬懿に「守りを固めて防御に徹していればいい。ヤツは進む事も出来ず、決戦を挑む事も出来ず、対峙し続ければ兵糧は無く、戦利品も得られない」と命令したという。

この時の魏側の戦略が「テッテ的に守りに徹しておく」だったのが分かる。攻め込まれた側としては当然の選択とも言えるが、呉もいるから危険は冒せない、みたいな部分もあったのかもしれない。



もっとも、諸葛亮も色々と仕掛けている感じなので、ただ出て行かなければいい、というものでもないはずだ。守るにもそれなりの指揮能力は必要だろう。