『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その23

その22(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/05/26/000100)の続き。





五年春正月、車騎將軍董承・偏將軍王服・越騎校尉种輯受密詔誅曹操、事洩。
壬午、曹操殺董承等、夷三族。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

建安5年(6月まで)。



曹操、朝敵となる。ただ、密詔なので公式には無かった事になっているのかもしれない。


(劉)備之未東也、陰與董承等謀反、至下邳、遂殺徐州刺史車冑、舉兵屯沛。
遣劉岱・王忠撃之、不克。
廬江太守劉勳率衆降、封為列侯。
五年春正月、董承等謀泄、皆伏誅。
公將自東征備、諸將皆曰「與公爭天下者、袁紹也。今紹方來而棄之東、紹乗人後、若何?」公曰「夫劉備、人傑也、今不撃、必為後患。袁紹雖有大志、而見事遲、必不動也。」郭嘉亦勸公、遂東撃備、破之、生禽其將夏侯博。備走奔紹、獲其妻子。備將關羽屯下邳、復進攻之、羽降。昌豨叛為備、又攻破之。公還官渡、紹卒不出。
二月、紹遣郭圖・淳于瓊・顔良攻東郡太守劉延于白馬、紹引兵至黎陽、將渡河。
夏四月、公北救延。荀攸說公曰「今兵少不敵、分其勢乃可。公到延津、若將渡兵向其後者、紹必西應之、然後輕兵襲白馬、掩其不備、顔良可禽也。」公從之。紹聞兵渡、即分兵西應之。公乃引軍兼行趣白馬、未至十餘里、良大驚、來逆戰。使張遼・關羽前登、撃破、斬良。遂解白馬圍、徙其民、循河而西。
紹於是渡河追公軍、至延津南。公勒兵駐營南阪下、使登壘望之曰「可五六百騎。」有頃、復白「騎稍多、歩兵不可勝數。」公曰「勿復白。」乃令騎解鞍放馬。是時、白馬輜重就道。諸將以為敵騎多、不如還保營。荀攸曰「此所以餌敵、如何去之!」紹騎將文醜劉備將五六千騎前後至。諸將復白「可上馬。」公曰「未也。」有頃、騎至稍多、或分趣輜重。公曰「可矣。」乃皆上馬。時騎不滿六百、遂縱兵撃、大破之、斬醜。良・醜皆紹名將也、再戰、悉禽、紹軍大震。
公還軍官渡。紹進保陽武。
關羽亡歸劉備
(『三国志』巻一、武帝紀)

袁術討伐に加わっていた劉備が徐州で反乱。曹操袁紹よりも優先して劉備を討った。



思うに、袁紹公孫瓚を討ったのは前年3月頃なので、まだ袁紹の態勢が整っていない、という点があったのではなかろうか。逆にここでなお冀州への攻勢を続けても、今度は劉備が徐州から献帝のいる予州へと攻め寄せてくることになり、曹操は挟み撃ちの格好になるかもしれない。


しかし劉備を討つために冀州攻めの手を止めると、今度は袁紹に軍の再編成の時間を与える事になるのではなかろうか。実際、劉備を破ったのはいいが袁紹が攻め寄せてきている。


袁紹も好機を逃したという面があったにしろ、その代わりに十分な兵力を用意して南下できた、とも言えるだろう。



実際には袁紹劉備どちらを取っても苦渋の選択になるというところだったのではないかと思う(劉備がもっと粘れていたら全て破綻しかねなかったのでは?)。




こうしていわゆる「官渡の戦い」が始まるわけだが、曹操袁紹方の将を討ってはいるものの、官渡へと戻ってきている。これまで冀州側に攻め込んでいたわけだから、後退せざるを得なくなっているのである。