『晋書』宣帝紀を読んでみよう:その11

その10(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/07/03/000100)の続き。





時朝廷以(諸葛)亮僑軍遠寇、利在急戰、毎命帝持重、以候其變。
亮數挑戰、帝不出、因遺帝巾幗婦人之飾。帝怒、表請決戰、天子不許、乃遣骨鯁臣衛尉辛毗杖節為軍師以制之。後亮復來挑戰、帝將出兵以應之、毗杖節立軍門、帝乃止。初、蜀將姜維聞毗來、謂亮曰「辛毗杖節而至、賊不復出矣。」亮曰「彼本無戰心、所以固請者、以示武于其衆耳。將在軍、君命有所不受、苟能制吾、豈千里而請戰邪!」
帝弟孚書問軍事、帝復書曰「亮志大而不見機、多謀而少決、好兵而無權、雖提卒十萬、巳墮吾畫中、破之必矣。」與之對壘百餘日、會亮病卒、諸將燒營遁走、百姓奔告、帝出兵追之。亮長史楊儀反旗鳴鼓、若將距帝者。帝以窮寇不之逼、於是楊儀結陣而去。經日、乃行其營壘、觀其遺事、獲其圖書・糧穀甚衆。帝審其必死、曰「天下奇才也。」辛毗以為尚未可知。帝曰「軍家所重、軍書密計・兵馬糧穀、今皆棄之、豈有人捐其五藏而可以生乎?宜急追之。」關中多蒺䔧、帝使軍士二千人著軟材平底木屐前行、蒺藜悉著屐、然後馬歩倶進。追到赤岸、乃知亮死審問。
時百姓為之諺曰「死諸葛走生仲達。」帝聞而笑曰「吾便料生、不便料死故也。」
先是、亮使至、帝問曰「諸葛公起居何如、食可幾米?」對曰「三四升。」次問政事、曰「二十罰已上皆自省覽。」帝既而告人曰「諸葛孔明其能久乎!」竟如其言。亮部將楊儀魏延爭權、儀斬延、并其衆。帝欲乗隙而進、有詔不許。
(『晋書』巻一、宣帝紀

死んだ諸葛亮、生きている司馬懿を逃走させたの巻。


漢晉春秋曰、楊儀等整軍而出、百姓奔告宣王、宣王追焉。姜維令儀反旗鳴鼓、若將向宣王者、宣王乃退、不敢偪。於是儀結陳而去、入谷然後發喪。宣王之退也、百姓為之諺曰「死諸葛走生仲達。」或以告宣王、宣王曰「吾能料生、不便料死也。」
(『三国志』巻三十五、諸葛亮伝注引『漢晋春秋』)


諸葛亮がオーバーワークの果てに死亡。退却する蜀漢軍を追った司馬懿は、その蜀漢軍がこちらへ向かってくるかのような様子が見えたために退却した、という。


「死んでたのにビビッて退却した」みたいに言われるのは司馬懿としては心外だったろうが、まあ仕方ない。

魏略曰、(諸葛)亮軍退、司馬宣王使(張)郃追之。郃曰「軍法、圍城必開出路、歸軍勿追。」宣王不聽。郃不得已遂進。蜀軍乗高布伏、弓弩亂發、矢中郃髀。
(『三国志』巻十七、張郃伝注引『魏略』)


あるいは、司馬懿は以前に諸葛亮の偽退に引っかかった経験があったからかもしれない。





また、司馬懿諸葛亮の挑発を受けて諸葛亮と戦おうとしたが辛毗(大将軍軍師)が皇帝の命により止めた、という話について、諸葛亮は「司馬懿は部下に武威を示すために攻撃許可を求めたが、本心では戦う気は無いのだ」と看破したという。


烈祖様と司馬懿の間では守りに徹するという方針が統一されていても、戦功を求める部下のガス抜きや、大将の威厳を示す行為は別に必要だった、という事なのだろう。