『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その20

その19(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20181120/1542640207)の続き。





本傳曰、賈生之過秦曰、秦孝公據崤函之固、擁雍州之地、君臣固守以闚周室、有席卷天下并吞八荒之心。當此之時、商君佐之、内立法度、務耕織、修守戰之備、外連膻而鬥諸侯。於是秦人拱手而取西河之外。及惠文武昭襄、蒙故業、因遺策、南取漢中、西取巴蜀、東割膏腴之地、收要害之郡。諸侯恐懼、會盟而謀弱秦、合從締交、相與為一、常以十倍之地、百萬之軍、仰關而攻秦。秦人開關延敵、九國之師、逡巡而不敢進、秦無亡矢遺鏃之費、而天下已困矣。於是從散約敗、爭割地而賂秦、秦有餘力而制其弊、追亡逐北、伏尸百萬、流血漂櫓、因利乗便、宰割天下、分裂山河、彊國請伏、弱國入朝。及至始皇、奮六世之餘烈、振長策而御宇内、吞二周而亡諸侯、履至尊而制六合。南取北粵之地、以為桂林象郡、百越之君、頫首繫頸、委命下吏。乃使蒙恬、北築長城而守藩籬、郤匈奴七百餘里。然後踐華為城、因河為池、據億丈之峻、臨不測之深以為固、良將勁弩、守要害之地、信臣精卒、陳利兵而誰何。天下已定、始皇之心、自以關中之固、萬世之業也、於是廢先王之典、焚百家之言、以威力為至道、以權詐為要術、百姓失望、而天下懷怨矣。故陳渉起於行陣之間、將數萬之衆、轉鬥而攻秦、斬木為兵、揭竿為旗、天下雲合響應、贏糧而影從、山東豪傑、並起而亡秦族矣。夫秦以區區之地、致萬乗之權、然後以六合為家、崤函為宮、一夫作難、而七廟隳、身死人手、為天下笑者、何也。仁義不施、而攻守之勢異也。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第二)

この部分は『史記』秦始皇本紀で司馬遷が賈誼の言として引用しているいわゆる「過秦論」である。




仁や義を軽視した事が早々に滅んだ原因である、という賈誼の見解を、司馬遷も荀悦も踏襲しているものと思って良いのだろう。




荀悦がこの『漢紀』を記した時期を考えると、敢えて過秦論を強調していくスタイルはなかなか意味深である。