『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その49

その48(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/01/06/000100)の続き。





上欲都洛陽、戍卒婁敬求見、説上曰、陛下都洛陽、豈欲與周室比隆哉。上曰然、敬曰、陛下取天下與周室異。周之先、自后稷堯封之邰、積徳十餘世、公劉避狄居豳。太王以狄伐故去豳、杖馬策之歧、國人爭歸之。文王為西伯始受命、武王伐殷、八百諸侯、不期而會孟津之上。成王即位、周公之屬傅焉、乃營成周、都洛邑、以為此天下中、四方納貢職、道里均矣。有徳則易以王、無徳則易以亡。凡居此者、欲務以徳致人、不欲阻險令後世驕奢以虐人。及周之衰、分而為二、天下莫朝、周不能制、形勢弱矣。今陛下用兵取天下、大戰七十、小戰四十、使百姓肝腦塗地、暴骨中野、哭泣之聲未絶、傷夷者未起。而欲比隆周室、臣竊以陛下為不侔矣。夫秦地被山帯河、四塞以為固、卒然有急、百萬之衆可具。因秦之資、膏腴之地、此所謂金城天府之國。陛下都關中、山東雖亂、秦地可全而有也。上問群臣、群臣皆山東人、咸言周七八百年、秦二世而亡。且洛陽東有成皋、西有澠池、背河向洛、其固不敵、此亦足恃也。上疑焉、問張良張良曰、洛陽雖有此險、其中小、不過數百里、四面受敵、此非用武之國。夫關中左崤函、右隴蜀、沃野千里、南有巴蜀之饒、北有胡宛之利、阻三面而守、獨以一面東制。諸侯安定、河渭漕輓、足以西給京師、諸侯有變、順流而下、足以委輸。此所謂金城千里天府之國。婁敬之說是也。於是上即日車駕西入關、治櫟陽宮。拜婁敬為郎中、號奉春君、賜姓劉氏。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第三)

劉邦、関中を都とする。



それまでは洛陽を都としていたのだが、ここで関中を都にすると決定した。




決断すると即日関中への移動を始めたというのが面白い。



劉敬者、齊人也。漢五年、戍隴西、過洛陽、高帝在焉。婁敬脱輓輅、衣其羊裘、見齊人虞將軍曰「臣願見上言便事。」虞將軍欲與之鮮衣、婁敬曰「臣衣帛、衣帛見。衣褐、衣褐見」終不敢易衣。於是虞將軍入言上。上召入見、賜食。
(『史記』巻九十九、劉敬叔孫通列伝)


なお、説得した婁敬(劉敬)は本文中でも「戍卒」と言っているように一般の兵卒扱いで粗末な服装であったらしいが、口利きした者の勧めにも応じずにそのままの姿で皇帝劉邦に謁見したらしい。


これを敢えてする婁敬も、それを認める劉邦も、どちらも何か凄い。こういう時代らしいと言えるかもしれない。