『漢書』哀帝紀を読んでみよう:その5

その4(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180428/1524842133)の続き。




二年春三月、罷大司空、復御史大夫
夏四月、詔曰「漢家之制、推親親以顯尊尊。定陶恭皇之號不宜復稱定陶。尊恭皇太后曰帝太太后、稱永信宮。恭皇后曰帝太后、稱中安宮。立恭皇廟于京師。赦天下徒。」
罷州牧、復刺史。
六月庚申、帝太后丁氏崩。
上曰「朕聞夫婦一體。詩云『穀則異室、死則同穴。』昔季武子成寑、杜氏之殯在西階下、請合葬而許之。附葬之禮、自周興焉。『郁郁乎文哉!吾從周。』孝子事亡如事存。帝太后宜起陵恭皇之園。」遂葬定陶。發陳留・濟陰近郡國五萬人穿復土。
侍詔夏賀良等言赤精子之讖、漢家暦運中衰、當再受命、宜改元易號。
詔曰「漢興二百載、暦數開元。皇天降非材之佑、漢國再獲受命之符、朕之不徳、曷敢不通!夫基事之元命、必與天下自新、其大赦天下。以建平二年為太初元將元年。號曰陳聖劉太平皇帝。漏刻以百二十為度。」
(『漢書』巻十一、哀帝紀)

建平2年前半。




御史大夫復活。実は同時に大司馬にも将軍号が加わっている。つまり成帝末期の三公制以前に戻ったのである。



州牧から刺史に戻したのも同様である。



「帝太太后」とは哀帝の祖母傅氏、「帝太后」とは哀帝の生母丁氏の事である。太皇太后王氏(元后)、皇太后趙氏(趙飛燕)と同格になったのである。





「陳聖劉太平皇帝」爆誕



これはあの翟方進の天文学の弟子の李尋や、同じく暦学の大家の夏賀良らが哀帝を動かして行われたもので、病身の哀帝が改めて天命を受け直そうというものであった。



我々の常識から見ると噴飯ものであるが、当時の彼らにとってそうだったのかは別である。少なくとも、何か「御利益」があるかもしれないと思う人間が少なからず存在したからこそ行われたのであろう。



とはいえ、やはり反対も多かったようである。哀帝自身が病身で政治的混乱が生じていたのかもしれない。