『漢書』元帝紀を読んでみよう:その15

その14(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180322/1521646297)の続き。




竟寧元年春正月、匈奴虖韓邪單于來朝。
詔曰「匈奴郅支單于背叛禮義、既伏其辜、虖韓邪單于不忘恩徳、郷慕禮義、復修朝賀之禮、願保塞傳之無窮、邊垂長無兵革之事。其改元為竟寧、賜單于待詔掖庭王檣為閼氏。」
皇太子冠。賜列侯嗣子爵五大夫、天下為父後者爵一級。
二月、御史大夫(繁)延壽卒。
三月癸未、復孝惠皇帝寢廟園・孝文太后・孝昭太后寢園。
夏、封騎都尉甘延壽為列侯。賜副校尉陳湯爵關内侯、黄金百斤。
五月壬辰、帝崩于未央宮。
太上皇・孝惠・孝景皇帝廟。罷孝文・孝昭太后・昭靈后・武哀王・昭哀后寢園。
秋七月丙戌、葬渭陵。
贊曰、臣外祖兄弟為元帝侍中、語臣曰元帝多材藝、善史書。鼓琴瑟、吹洞簫、自度曲、被歌聲、分刌節度、窮極幼眇。少而好儒、及即位、徴用儒生、委之以政、貢・薛・韋・匡迭為宰相。而上牽制文義、優游不斷、孝宣之業衰焉。然𥶡弘盡下、出於恭儉、號令温雅、有古之風烈。
(『漢書』巻九、元帝紀)


竟寧元年。



匈奴の呼韓邪単于、入朝。




しかしその年に元帝は死去した。



実は宣帝も呼韓邪単于が入朝した年に死んでいる。





甘延寿・陳湯の恩賞問題は決着。陳湯は命令を偽り、上司を脅してもいるので、恩賞が貰えただけでもよしとすべきなのだろう。



元帝崩、(匡)衡奏言「前以上體不平、故復諸所罷祠、卒不蒙福。案衛思后・戻太子・戻后園、親未盡。孝惠・孝景廟親盡、宜毀。及太上皇・孝文・孝昭太后・昭靈后・昭哀后・武哀王祠・請悉罷、勿奉。」奏可。
(『漢書』巻七十三、韋玄成伝)

元帝が死去すると、少し前に復活した祭祀施設を再度廃止した。「復活したけど皇帝は元気にならなかった。祟りではなかったのだからまた前に戻そう」という事だ。





「賛」で言われている「臣外祖兄弟」とはあの金日磾の弟の孫、金敞の事であるという。



金氏と『漢書』編者の班彪・班固は縁戚なのだ。




元帝は頭がよく、音楽の天才だった」というのはちょっと興味深い情報である。