『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その4

その3の続き。


輔政歳餘、成帝崩、哀帝即位、尊皇太后太皇太后
太后詔莽就第、避帝外家。莽上疏乞骸骨。
哀帝尚書令詔莽曰「先帝委政於君而棄羣臣、朕得奉宗廟、誠嘉與君同心合意。今君移病求退、以著朕之不能奉順先帝之意、朕甚悲傷焉。已詔尚書待君奏事。」又遣丞相孔光・大司空何武・左將軍師丹・衛尉傅喜白太后曰「皇帝聞太后詔、甚悲。大司馬即不起、皇帝即不敢聽政。」太后復令莽視事。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)


王莽が執政となって一年あまり、成帝が崩御して哀帝が即位、皇太后の王氏(元后)は太皇太后となった。



元后は王莽に屋敷に帰って哀帝外戚に座を譲るよう命じ、王莽も辞職を自ら申し出た。



それに対し哀帝尚書令を王莽の元に遣わして「先帝が政治を君に委ねて臣下を捨てて世を去った。朕は宗廟を奉じ、君と心を合わせてやっていくことを良き事と思っている。しかし今、君は病気と称して地位を退くことで、朕が先帝の遺志を継ぐことができないということを表明しようとしている。大変悲しいことである。尚書には君からの上奏を待つよう命じてある」と伝えさせた。



更に、丞相孔光・大司空何武・左将軍師丹、衛尉傅喜といった者たちを元后へ遣わし、「皇帝は太皇太后のご命令を聞いて大変悲しんでおります。大司馬王莽がもし戻ってこなかったら、皇帝も政治を見ることはありません」と言わせた。そこで元后は王莽に復帰するよう命じた。


成帝が急死して哀帝が即位した。



これはそこまではとんとん拍子だったと言ってもいい王莽にとって重大な転機となった。



何故かと言うと、哀帝は成帝の実子ではなく、養子だからである。

言い換えると、元后や王莽との血縁は無いのである。




養子となった以上は王氏は親戚であると言ったところで、結局のところ哀帝が本当に頼りにするのは血縁者になるのが普通であり、どのみちいずれは王莽も政治の本流から外される可能性が高いということなのだ。




ただ、今回の辞任騒動は元后・王莽の本心というよりは、敢えて退くことで「血縁は無くても王氏のことは外戚として重用し続ける」ということを確認する作業と思うべきなのだろう。


血縁が無いためにいずれ外されるという危機感を王莽や他の王氏一族が感じていたからこそ、元后・王莽・哀帝はそういった茶番を行うことで、王莽たち王氏を安心させて即位直後の不安定な政情を少しでも落ち着かせようとした、そう考えた方が良いのではないかと思う。




王莽が哀帝即位後の激しい波にさらされるのは、その後である。