『漢書』哀帝紀を読んでみよう:その8

その7(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180502/1525186934)の続き。




四年春、大旱。
關東民傳行西王母籌、經歴郡國、西入關至京師。民又會聚祠西王母、或夜持火上屋、撃鼓號呼相驚恐。
二月、封帝太太后從弟侍中傅商為汝昌侯、太后同母弟子侍中鄭業為陽信侯。
三月、侍中駙馬都尉董賢・光祿大夫息夫躬・南陽太守孫寵皆以告東平王封列侯。語在賢傳。
夏五月、賜中二千石至六百石及天下男子爵。
六月、尊帝太太后為皇太太后
秋八月、恭皇園北門災。
冬、詔將軍・中二千石舉明兵法有大慮者。
(『漢書』巻十一、哀帝紀)

建平4年。


哀帝建平四年正月、民驚走、持稾或棷一枚、傳相付與、曰行詔籌。道中相過逢多至千數、或被髮徒踐、或夜折關、或踰牆入、或乗車騎奔馳、以置驛傳行、經歴郡國二十六、至京師。其夏、京師郡國民聚會里巷仟佰、設張博具、歌舞祠西王母、又傳書曰「母告百姓、佩此書者不死。不信我言、視門樞下、當有白髮。」至秋止。
(『漢書』巻二十七下之上、五行志下之上)

西王母の予言」が大流行する。民衆が「西王母を信じていれば死なない、御利益がある」と信じ、周辺にも伝えようと狂奔したというところか。



「ええじゃないか」みたいなものだろうか?



五行志的には「外戚傅氏の横暴のためだ」とか「後の外戚王莽の予兆だ」とか言われている。それはともかくとしても、どことなく世紀末的な政情不安を思わせる事件ではある*1




上欲侯(董)賢而未有縁。會待詔孫寵・息夫躬等告東平王雲后謁祠祀祝詛、下有司治、皆伏其辜。上於是令躬・寵為因賢告東平事者、乃以其功下詔封賢為高安侯、躬宜陵侯、寵方陽侯、食邑各千戸。頃之、復益封賢二千戸。丞相王嘉内疑東平事冤、甚惡躬等、數諫爭、以賢為亂國制度、嘉竟坐言事下獄死。
(『漢書』巻九十三、佞幸伝、董賢)


哀帝の最高の友達(意味深)である董賢、列侯に。


彼は既に哀帝の寵愛を受け、哀帝の側室筆頭(昭儀)となった妹ともども常に哀帝の側にいたわけだが、ここでついに人臣最高の地位まで行きついた事になる。なお、まだ二十代前半の若者である。


しかしこの封侯、更にはその原因となった東平王の事件について、当時の丞相王嘉は疑いを抱いたのだという。




不穏な空気が朝廷に充満してきた。

*1:なお、この年は西暦では紀元前3年に当たる。