『漢書』哀帝紀を読んでみよう:その6

その5(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180429/1524929012)の続き。




七月、以渭城西北原上永陵亭部為初陵。勿徙郡國民、使得自安。
八月、詔曰「待詔夏賀良等建言改元易號、筯益漏刻、可以永安國家。朕過聽賀良等言、冀為海内獲福、卒亡嘉應。皆違經背古、不合時宜。六月甲子制書、非赦令也、皆蠲除之。賀良等反道惑衆、下有司。」皆伏辜。
丞相(朱)博・御史大夫(趙)玄・孔郷侯(傅)晏有罪。博自殺、玄減死二等論、晏削戸四分之一。語在博傳。
(『漢書』巻十一、哀帝紀)

建平2年後半。


後月餘、上疾自若。(夏)賀良等復欲妄變政事、大臣爭以為不可許。賀良等奏言大臣皆不知天命、宜退丞相御史、以解光・李尋輔政。上以其言亡驗、遂下賀良等吏、而下詔曰「朕獲保宗廟、為政不徳、變異屢仍、恐懼戰栗、未知所繇。待詔賀良等建言改元易號、筯益漏刻、可以永安國家。朕信道不篤、過聽其言、幾為百姓獲福、卒無嘉應、久旱為災。以問賀良等、對當復改制度、皆背經誼、違聖制、不合時宜。夫過而不改、是為過矣。六月甲子詔書、非赦令也、皆蠲除之。賀良等反道惑衆、姦態當窮竟。」皆下獄、光祿勳平當・光祿大夫毛莫如與御史中丞・廷尉雜治、當賀良等執左道、亂朝政、傾覆國家、誣罔主上、不道。賀良等皆伏誅。尋及解光減死一等、徙敦煌郡。
(『漢書』巻七十五、李尋伝)

「陳聖劉太平皇帝」、終わる。



一向に御利益が無かった上、建言者夏賀良はなおも反対する者たちが悪いと言い募り、哀帝の信頼を完全に失って逆に処分された。





ついでに丞相朱博も終わる。



この朱博は三公制や州牧制を元に戻した人物とされ、いわば「守旧派」だったと思われる。


ただし、彼が失脚したのは彼が哀帝の祖母傅氏におもねったとされたためである。


哀帝は成帝の外戚王氏、成帝の皇后趙氏、そして自分の外戚傅氏のバックアップで即位を果たしたわけだが、そのどの勢力に対しても厳しい姿勢で臨んでおり、自分の血縁傅氏であっても自分より祖母の言う事の方を聞く連中を許さなかったようだ。




まだ若い上に病身であったと言われる事を考えると、哀帝のこの姿勢はなかなか凄いものがある。