『漢書』宣帝紀を読んでみよう:その23

その22(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180301/1519830702)の続き。




三年春正月、行幸甘泉、郊泰畤。
匈奴呼韓邪單于稽侯狦來朝、贊謁稱藩臣而不名。賜以璽綬・冠帯・衣裳・安車・駟馬・黄金・錦繡・虵絮。使有司道單于先行就邸長安、宿長平。
上自甘泉宿池陽宮。上登長平阪、詔單于毋謁。其左右當戸之羣皆列觀、蠻夷君長王侯迎者數萬人、夾道陳。上登渭橋、咸稱萬歳。單于就邸。置酒建章宮、饗賜單于、觀以珍寶。
二月、單于罷歸。遣長樂衛尉高昌侯忠・車騎都尉昌・騎都尉虎將萬六千騎送單于。單于居幕南、保光祿城。詔北邊振穀食。郅支單于遠遁、匈奴遂定。
詔曰「乃者鳳皇集新蔡、羣鳥四面行列、皆郷鳳皇立、以萬數。其賜汝南太守帛百匹、新蔡長吏・三老・孝弟・力田・鰥寡孤獨各有差。賜民爵二級。毋出今年租。」
三月己丑、丞相(黄)霸薨。
詔諸儒講五經同異、太子太傅蕭望之等平奏其議、上親稱制臨決焉。乃立梁丘易・大小夏侯尚書・穀梁春秋博士。
冬、烏孫公主來歸。
四年夏、廣川王海陽有罪、廢遷房陵。
冬十月丁卯、未央宮宣室閣火。
(『漢書』巻八、宣帝紀

甘露3年、4年。



匈奴の呼韓邪単于来朝。宣帝に会い、印璽その他を下賜される。




明日、單于果遣右骨都侯當白將率曰「漢賜單于印、言『璽』不言『章』、又無『漢』字、諸王已下乃有『漢』言『章』。今即去『璽』加『新』、與臣下無別。願得故印。」將率示以故印、謂曰「新室順天制作、故印隨將率所自為破壞。單于宜奉天命、奉新室之制。」
(『漢書』巻九十四下、匈奴伝下)


後に王莽が匈奴に下賜する印璽の文面を変更した際の話を見ると、宣帝以降の漢の匈奴の印璽では、「漢」と付かず、また皇帝などの高貴な者の印璽にしか使わない「璽」という語を使うなどの配慮があったという。



「漢」と付いていないというのは、前回決められたように臣下扱いしないという現れだろうし、「璽」という語を使うのは諸侯王以上の序列と決めた事に対応するのだろう。




これで匈奴(呼韓邪単于)は漢の臣下ではないが属国に近い立場になったと言える。またこれによって呼韓邪単于は漢の助力を期待できるようになり、強力なライバルというかむしろ優勢であったようにも思われた郅支単于匈奴の中心から追いやられることとなった。





烏孫公主、帰還。



烏孫公主というのは西域の烏孫に「公主」すなわち皇帝の娘という体で送り込まれた謀反人だった楚王の娘。



おそらく匈奴を挟撃する目的から漢は烏孫を重視しており、婚姻政策で烏孫を影響下に置いていたようだ。



この度西域での任務を終えて帰ってきたのである。