『漢書』宣帝紀を読んでみよう:その21

その20(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180226/1519571385)の続き。




甘露元年春正月、行幸甘泉、郊泰畤。
匈奴呼韓邪單于遣子右賢王銖婁渠堂入侍。
二月丁巳、大司馬車騎將軍(許)延壽薨。
夏四月、黄龍見新豐。
丙申、太上皇廟火。
甲辰、孝文廟火。
上素服五日。
冬、匈奴單于遣弟左賢王來朝賀。
(『漢書』巻八、宣帝紀

甘露元年。




匈奴の呼韓邪単于、子を漢王朝に人質に出す。

其後二年、閏振單于率其衆東撃郅支單于。郅支單于與戰、殺之、并其兵、遂進攻呼韓邪。
呼韓邪破、其兵走、郅支都單于庭。
呼韓邪之敗也、左伊秩訾王為呼韓邪計、勸令稱臣入朝事漢、從漢求助、如此匈奴乃定。呼韓邪議問諸大臣、皆曰「不可。匈奴之俗、本上氣力而下服役、以馬上戰鬬為國、故有威名於百蠻。戰死、壯士所有也。今兄弟爭國、不在兄則在弟、雖死猶有威名、子孫常長諸國。漢雖彊、猶不能兼并匈奴、奈何亂先古之制、臣事於漢、卑辱先單于、為諸國所笑!雖如是而安、何以復長百蠻!」左伊秩訾曰「不然。彊弱有時、今漢方盛、烏孫城郭諸國皆為臣妾。自且鞮侯單于以來、匈奴日削、不能取復、雖屈彊於此、未嘗一日安也。今事漢則安存、不事則危亡、計何以過此!」諸大人相難久之。呼韓邪從其計、引衆南近塞、遣子右賢王銖婁渠堂入侍。
郅支單于亦遣子右大將駒于利受入侍。
是歳、甘露元年也。
(『漢書』巻九十四下、匈奴伝下)

五人の単于が立った匈奴では、郅支単于が呼韓邪単于の強力なライバルとなっていた。というか呼韓邪単于は押されていた。


そこで呼韓邪単于は漢の助力を得ようと漢への完全服従を決め、子供を人質に出すまでに至ったという。


ただ、上記匈奴伝によると郅支単于もまた子を人質として漢に送ったというから、匈奴全体が漢王朝の意向で動く、という状態になっていたと言えるだろう。




そんな状況なので、この甘露元年の最後に左賢王(匈奴単于の皇太子のような地位に当たる)を使者として送ったという単于は、この文のみでは呼韓邪単于の事かどうか分からない。郅支単于の方かもしれない。