『漢書』昭帝紀を読んでみよう:その6

その5(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180119/1516288143)の続き。




六年春正月、上耕于上林。
二月、詔有司問郡國所舉賢良文學民所疾苦。議罷鹽鐵榷酤。
栘中監蘇武前使匈奴、留單于庭十九歳乃還、奉使全節、以武為典屬國、賜錢百萬。
夏、旱、大雩、大得舉火。
秋七月、罷榷酤官、令民得以律占租、賣酒升四錢。
以邊塞闊遠、取天水・隴西・張掖郡各二縣置金城郡。
詔曰「鉤町侯毋波率其君長人民撃反者、斬首捕虜有功。其立毋波為鉤町王。大鴻臚廣明將率有功、賜爵關内侯、食邑。」
(『漢書』巻七、昭帝紀

始元6年。



「塩鉄論」起こる。


昭帝即位六年、詔郡國舉賢良文學之士、問以民所疾苦、教化之要。皆對願罷鹽鐵酒榷均輸官、毋與天下爭利、視以儉節、然後教化可興。(桑)弘羊難、以為此國家大業、所以制四夷、安邊足用之本、不可廢也。乃與丞相(田)千秋共奏罷酒酤。
(『漢書』巻二十四下、食貨志下)


推挙された者たちが揃って塩・鉄・酒の専売制廃止を述べたという。それだけ苦しんでいたとも取れるし、当時御史大夫だった桑弘羊はこれら専売制を主導した経済官僚の一派なので、彼を追い落としたいという何者かの作為があったと疑う余地もあるだろう。


酒の専売だけ止めようと桑弘羊の方から言い出すのは、これを「落としどころ」にして塩・鉄という大物の方は手を付けずに済ませようということだろう。





蘇武の帰還。匈奴に19年抑留されながら節を曲げなかったことで有名である。

(蘇)武以始元六年春至京師。詔武奉一太牢謁武帝園廟、拜為典屬國、秩中二千石、賜錢二百萬、公田二頃、宅一區。常惠・徐聖・趙終根皆拜為中郎、賜帛各二百匹。其餘六人老歸家、賜錢人十萬、復終身。
常惠後至右將軍、封列侯、自有傳。
武留匈奴凡十九歳、始以彊壯出、及還、須髮盡白。
(『漢書』巻五十四、蘇武伝)

19年匈奴に抑留されたのは彼ばかりではなく、その随行員も一緒であった。

常惠、太原人也。少時家貧、自奮應募、隨栘中監蘇武使匈奴、并見拘留十餘年、昭帝時乃還。漢嘉其勤勞、拜為光祿大夫。
(『漢書』巻七十、常恵伝)


そのうち常恵は蘇武伝にもあるように蘇武よりも出世した。常恵の伝ではこの匈奴抑留以降の事績の方が重要なので、匈奴抑留の件は数文字で終わっている。



しかし実は蘇武の生存を漢に知らせたのは常恵なので、彼はこの時も特筆されてよい功績を立てている。





ちなみに、蘇武と李陵、そして霍光、上官桀らはいずれも武帝の侍中であり、どうやらお互いにその頃から面識があったようだ。