『漢書』哀帝紀を読んでみよう:その10

その9(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180505/1525446491)の続き。




二年春正月、匈奴單于・烏孫大昆彌來朝。
二月、歸國、單于不説。語在匈奴傳。
夏四月壬辰晦、日有蝕之。
五月、正三公官分職。大司馬衛將軍董賢為大司馬、丞相孔光為大司徒、御史大夫彭宣為大司空、封長平侯。正司直・司隸・造司寇職、事未定。
(『漢書』巻十一、哀帝紀)

元寿2年前半。



建平四年、單于上書願朝五年。時哀帝被疾、或言匈奴從上游來厭人、自黄龍・竟寧時、單于朝中國輒有大故。上由是難之、以問公卿、亦以為虚費府帑、可且勿許。單于使辭去、未發、黄門郎揚雄上書諫曰・・・(中略)・・・書奏、天子寤焉、召還匈奴使者、更報單于書而許之。賜雄帛五十匹、黄金十斤。
單于未發、會病、復遣使願朝明年。
故事、單于朝、從名王以下及從者二百餘人。單于又上書言「蒙天子神靈、人民盛壯、願從五百人入朝、以明天子盛徳。」上皆許之。
元壽二年、單于來朝、上以太歳厭勝所在、舍之上林苑蒲陶宮。告之以加敬於單于、單于知之。加賜衣三百七十襲、錦繡虵帛三萬匹、絮三萬斤、它如河平時。
既罷、遣中郎將韓況送單于。單于出塞、到休屯井、北度車田盧水、道里回遠。況等乏食、單于乃給其糧、失期不還五十餘日。
(『漢書』巻十一、哀帝紀)

匈奴烏孫の首長が入朝。



匈奴単于については、入朝してすぐに宣帝・元帝と死んでいる事から哀帝は難色を示したが揚雄の諫言により入朝させる事となった。



しかし天文の悪い動きの影響を匈奴に押し付けようという呪術的な観点からの企みが匈奴の知るところとなったらしく、これが匈奴が喜ばなかったという理由なのだろう。





三公制、再始動。



今度は「丞相」の号自体が消滅して名前の上で同格の「大司馬」「大司徒」「大司空」となった事、筆頭が丞相ではなく「大司馬」になった事が変更点として挙げられる。



また司直・司隸・司寇を再編したという。「(丞相)司直」「司隸(校尉)」はいずれも監察官なので、「司寇」というのも監察官の一種なのだろう。


司直は大司徒、司隷は大司空、司寇は大司馬の下に付いたと記録されており、司寇は「護軍都尉」を再編したものだそうだ。



それぞれに置いたという事は、おそらくはそれぞれの所管を監察する官とされたのだろう。